水のあれこれ 53 <給水の清浄、豊富、低廉を確保する>

前回の記事で紹介した東京都水道局の「東京水道100年のあゆみ」に、こんな一文があります。

昭和32年には明治23年以来の水道条例に代わって水道法が施行され、給水の清浄、豊富、低廉を確保することが規定された


「清潔な水を豊かに安く」
今の東京では当然すぎることが、どれだけ長いこと求められ続けて来た夢のようなシステムなのかが、東京都水道歴史館の展示をみたあとは、よくわかりました。
展示のテーマがまさに、この「給水の清浄、豊富、低廉を確保する」ことなのだろうと理解しました。



<「江戸の給水法」>



展示館に入ると、大きな木が横たわっています。
これが江戸時代の木樋(もくひ)、現代の水道管です。

江戸の給水法


玉川上水羽村から四谷大木戸まで水路を掘り、四谷大木戸からは地中に埋められた樋により配水された。樋は石や木で作られた。現在の水道設備のように配水管、給水管の役目を果たすために、様々な大きさや形の木樋が継手により連結され、上水井戸へと給水された。


玉川上水に関心があった頃、江戸時代に羽村堰から江戸の中心部まで人海戦術で水路を掘削したということに驚いたのですが、その水がさらにどのように配水されていたかまでは思い至ることもありませんでした。


きっと水路から側溝が掘られて、現代の農業用水路のような流れになっていて、人々はそこから水を汲んでいたのだろうというイメージでした。


ところが、展示をみて江戸の井戸のすごさにびっくりです。

上水井戸は共同で使用され、各家では上水井戸から水を汲み、水瓶か水桶にためて、生活に利用した。また、水の流れや汚れ具合を確認するために所々に、水見桝を設け、その蓋を取って確認できる構造になっていた。これらの配水技術から、当時の技術水準の高さを知ることができる。


「井戸」というと、掘削して地下水を汲む設備のイメージだったのですが、Wikipedia江戸下町の井戸にその木樋をつかった井戸の様子が書かれていました。

江戸時代の江戸の下町地域の井戸は、地下水取水のための設備ではなく、玉川上水を起源とする、市中に埋設された上水道の埋設管路(ライフライン)からの取水設備であった。これは大部分の下町地域は太田道灌により海を埋め立てて造成された地域であり、井戸を掘っても海水ばかりが出て使い物にならなかったため、埋設管路により下町に水を供給し、これを井戸(形状としては掘井戸の形)に接続させ、給水を行っていたものである。そのために水が桶に溜まるまで多少の時間がかかり、それを待つ間に近所の者で世間話をする「井戸端会議」という言葉が生まれた。


「井戸端会議」の語源も「へ〜」ですが、あの木樋が江戸のあちこにに埋められていて、水を溜める箇所が作られ、井戸の形で共同で水を汲んでいたことに驚きです。
水の流れが滞らないように、傾斜も考えられていたことでしょう。


現在の水道設備に比べれば、不便で不十分であり清潔とはいえない水道ですが、それまでの長い歴史を考えれば「清浄、豊富、低廉な水」であり、江戸の井戸はハイカラな技術だったことでしょう。


<「文明開化の水」>


明治に入って東京でコレラが拡大したことから、より清潔な水の必要性が求められて淀橋浄水場が計画されました。


水道歴史館の展示では「近代水道のしくみ」として、こんな説明がありました。

初期の淀橋浄水場には、沈殿池で原水の塵芥を沈殿させ、ろ過池でこの水をろ過し、浄水池にためるという工程を取り、飲料水が作られた。


沈殿池4池、ろ過池24池、総容量100万立方尺、約2万7千立方メートルの浄水池一面からなり、蒸気ポンプにより加圧し、低地給水地域には、芝、本郷給水所に自然流下で通水し、各給水所に設けた給水池から配水した。
このろ過された水は人々に「文明開化の水」と呼ばれ驚きをもってむかえ入れられた。


清潔な水への第一歩がこの淀橋浄水場の建設であったということなのかもしれません。



清潔な水を配水するための技術的な努力が続けられ、椰子殻活性炭の投入もそのひとつなのでしょう。
その後「高度浄水施設」という言葉が使われるようになったのが、1992年の金町浄水場のようです。


<耐震構造へ>


その淀橋浄水場は、大正10年の地震とその2年後に起きた関東大震災で大きな被害を受けたそうです。

大正10年の地震による水道への被害
この地震により淀橋浄水場の機能はすべて停止し、東京水道始まって以来の全市断水となった。

関東大震災
配水管の継手の部分の漏水が著しく、水圧低下、給水不良の原因となった。復旧には多額の費用、努力、日数を要した。
大震災を機に、新しく築造される水道施設や給水設備は耐震構造を備えたものとなった。
近代水道創設当時から淀橋浄水場にあった蒸気ポンプは、その後電動ポンプへと引き継がれた。

わずか90年後の大震災では、私の家の蛇口から清潔な水が止まること無く供給されたのでした。




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