今回の絶対に都県境を越えない散歩はどこに行こうか、都内はだいぶ散歩し尽くしたしと思いながら地図を拡大したり縮小したりしていると、「あれ?こんなところにあったっけ?」と思うようなものを見つけることがあります。
それが「東京水道発祥の地」の印でした。
あの淀橋浄水場跡の近くです。
玉川上水への関心から、東京の水道への関心につながり、現在の新宿中央公園のあたりも淀橋浄水場の歴史の跡を探して歩いたこともあります。この散歩も記録に残していませんでしたが。
まだ見落としていたものがあるようです。
ということで7月中旬に出かけてみました。
*「恋弁天」*
地図では、新宿住友ビルの西側にその印がありました。
都庁まで地下道を歩いて、住友ビルの正面の地上に出ました。
地上に出ると、蝉の声が聞こえました。1970年代ごろに植えられた街路樹が、まるで昔からあったかのような風景です。
玄関の前に小さな祠があり、それかなと思って近づいてみましたが、それは「新宿住友ビル 出雲大社」で、その前には「恋弁天」がありました。
恋はみづもの 水あれば
心は狂い 花が咲く
その昔よりこの地は
沼や池 水豊かなる里
水を求めてひとあつまり
さがしたという
いらい弁天をおき 水をまつる
ゆえに 新宿の弁天たちは
恋には 水をささぬとの伝え
つくりびと 流 政之
うまれどし 一九七五年
私が探しているものではなかったのですが、こんな「水」に対する気持ちもあるのですね。
*「東京水道発祥の地」*
ビルの西側へと歩いてみましたが、それらしきものはありません。
真夏の日差しに涼みたくなって、住友ビル1階の広場のような場所へ入ってみました。
ふと目がいったその先に、水道管のようなものが見えました。
近づくと「昭和十二年」という文字がだいぶ摩耗している水道管の連結部分で、その隣に「東京水道発祥の地」という説明文がありました。
まさか、屋内にあったとは。
首都東京、この大都市の発展のかげには、古くからその生活を支える水の確保に大変な努力がはらわれてきた。
すでに300年も前の江戸時代初期(1654年)、ふくれあがる江戸の水不足をまかなうため、玉川上水が開かれ、江戸からおおよそ50キロメートルも離れた羽村から多摩川の水が市中に引かれた。
時は変わって明治となり、首都が東京に移されるや、発展する都市に不可欠な近代水道の建設が急務となった、
そして、明治28年(1890年)、ここ旧東京府南豊島郡淀橋町に84万平方メートルの敷地を求め、玉川上水によって導かれた多摩川の水をここで沈でん・ろ過のうえ、200万人の市民に浄水を供給できるという、当時としては、画期的な規模の淀橋浄水場が建設されることとなった。
明治31年その一部が完成し、神田、日本橋地区へ給水が開始され、ここに東京の近代水道が誕生した。
以降、明治、大正、昭和と東京の歴史とともに歩み続けた淀橋浄水場は、昭和40年(1965年)東村山浄水場にバトンを渡し、給水開始以来60数年の歴史を閉じ、その跡地には新しい東京の象徴ともいうべき超高層ビルの街に生まれ変わることとなった。
ここに展示されているものは、内径 1,000ミリメートル蝶型弁といい、かつて淀橋浄水場で使用されていたものである。
東京は、今、この超高層ビルの街が象徴するように、ますます発展しようとしている。そして、この大都市が必要とする水も、遠くはるか200キロメートルも離れた利根川上流にまで求めている。
ここに展示された蝶型弁から、かつてここに都民の水をまかなうため、満々と水をたたえた浄水場があったことを、思い起こしていただき、合わせて大都市における水がいかに大切であり、またその確保が大変困難なものであることをご認識いただければ、はなはだ幸いです。
1974.4 元東京都水道局長 元淀橋浄水場長 小林重一
1974年にはこの記念碑がつくられていたのですね。
それから10年後、1980年代半ばにはこのあたりの高層ビルも増えて、この住友ビルの隣には半地下の開放空間がありました。
そこには当時、まだ珍しかったバイキング形式の新しいパン屋さんがあって、テラス席で友人と食事をした記憶があります。
あの頃は、この場所がどんな場所でどんな歴史があったのかも考えたこともなく、友人と世界の難民や海外医療協力を熱く語っていたのでした。
今でいう「意識高い」と、現実の行動のちぐはぐさですね。
そんなちょっと若気の至りのような気恥ずかしさも思い出しながら、東京水道発祥の地をあとにしました。
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