行間を読む 103 中島鋭治氏の業績

村山貯水池と山口貯水池について検索していたら、中島鋭治氏の名前を見つけました。

明治以降、人口増加および水道改善目的で東京市は1898年(明治31年)12月1日に淀橋浄水場を竣工させ、1911年(明治44年)3月まで施設能力を増強させたが、それでも市民の増加および一人当たりの使用量の増加に対応しきれなかった。そのため、東京市の人口増加に対応した水源確保のため、貯水池を新設することとなった。新設は中島鋭治の調査にて、西多摩郡大久村(現:日の出町)か北多摩郡の6村(清水村、狭山村、高木村、奈良橋村、蔵敷村、芋窪村)(現:東大和市)にまたがる狭山丘陵の二案が検討され、内部がすり鉢の窪地のため工費が安いという理由で、狭山丘陵に建設することが決定した。

Wikipedia  「村山貯水池」 )

 

最初に、中島鋭治氏の名前が記憶に残ったのが、駒沢給水塔を訪ねた2018年でした。

そして翌年、信濃川を歩いた時に長岡の旧中島浄水場で名前を見つけましたが、大正から昭和初期の水道施設の設計者ぐらいの理解のままでした。

 

今回、実際に狭山丘陵の周辺を歩いて驚いたことは、それほど高さのない丘陵地の窪地を利用して水をため、そしてそれをはるばる東京の中心部へと流すことをどうやって考えついたのだろうという点でした。

 

淀橋浄水場の計画変更*

 

1970年代終わり頃には、淀橋浄水場跡として高層ビルの建設が始まっていた西新宿ですが、その浄水場もまた中島鋭治氏の計画によるものだったようです。

 

Wikipedia淀橋浄水場の経緯にこう書かれています。

1891年(明治24年)11月1日には府庁内に水道改良事務所が設置された。『東京水道改良計画書』は後に内務技師・東京市水道技師中島鋭治工学博士の「淀橋に上水工場(浄水場)を築造し芝と本郷に給水工場(給水所)を築造、淀橋以西に新水路を構築する」という意見が盛り込まれ、同年12月1日の市区改正委員会に於いて議決され、設計変更された。 

 

もう少し検索していたら、「優れた水の配達人」というサイトの「日本の近代水道の父 中島鋭治の偉大なる功績」に、その「設計変更」のあたりが書かれていました。

日本で初めて近代水道建設に尽力したのは英国人技師パーマーだ。彼は1887年、横浜市に横浜水道を完成させた。いっぽう東京の近代水道の父といえば工学博士の中島鋭治である。1890年、当時の東京市に水道敷設を行うプロジェクトが持ち上がった。この大事業を取り仕切れるのは中島以外にいないと目され、当時欧米留学で海外にいた彼に即刻帰国を促したほどだ。当時は上下水道の技術を理解する者が少なかったが、2度外遊を経験し、欧米の土木技術を学んだ中島の学識は抜きん出ていた。それが東京水道工事事業の指揮者として腕をふるえた理由である。彼が最初に行ったのは、すでに建設予定下にあった千駄ヶ谷の浄水工場と、麻布と小石川の給水工場の工事進行を中止させることだった。浄水工場を作るなら淀橋に、給水工場は本郷と芝に予定変更させた。外遊帰りの34歳の若き中島は、自身の計画の合理性を市会や学会に猛然とアピールした。淀橋は東京で最も高く、玉川上水にも近く、本郷と芝の給水工場は淀橋上水(ママ)工場を頂点に二頭三角形に展開していることを理由にあげた。自然流下配水の効率性を考えれば、この配置が最も有利だと、持論を唱えた。中島の計画の正当性は、その後の東京の上水道の発展が物語っている。今でこそ淀橋浄水工場は取り壊されたが、本郷給水工場や芝給水工場は現在も活躍している。後年、中島は顧問業に就き、日本全国の都市計画・設計の指導者にもなった。中島に顧問を依頼した都市は東京市をはじめ、名古屋市仙台市鹿児島市高崎市長岡市などが挙げられる。もちろん、東京府下の渋谷町もだ。かつて渋谷町にあった駒沢給水所の配水塔は中島が手掛けた。あの欧風モダンのデザインは、彼の海外留学経験が生かされている。他にも駒沢を含む東京3大配水塔と 称される野方配水塔と大谷口配水塔も彼のデザインだ。

 

あの大谷口配水塔もそうなのかとWikipediaを読んでみたら、こう書かれていました。

設計者は駒沢配水塔などと同じく中島鋭治とする説が長らく語られてきたが、没年から逆算すると計算が合わず、現在は中島洋吉の設計とする説が有力である。 

物語になっていく業績の行間には、不正確な部分がたくさんありますね。

 

 

Wikipedia中島鋭治氏の経歴はあっさりしたものでした。

 

 

1858年(安政5年)生まれですから、江戸時代に少年期を過ごしたことに、 ちょっと驚きます。

その江戸時代生まれの青年が、「留学して橋梁工学と衛生工学を学ぶ。その後ドイツへ渡り、水道工事をおさめる。さらにイギリス上下水道、欧州各国の土木工事、ローマ給水法を調査」したとのことですが、その経験で淀橋浄水場の場所を選び、さらに貯水池の場所として狭山丘陵を選んだのですから、このあたりも何か驚異的に変化する時代だったのでしょうか。

 

 

最近、「偉人伝」という物語から解放されてきたのですが、水道関連施設を実際にあちこち歩いてみると、この時代の大きな動きに恩恵を受けていることを改めて感じることが増えました。

 

 

 

*2021年2月17日追記

ブックマークで、settu-jpさんから「江戸・東京水道史」をご紹介いただきました。

ありがとうございます。さっそく読んでみます。

 

 

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