発達する 3 <生活史と過度の一般化>

祖父母とも2〜3年に一度会う程度で、周囲に老人がいない核家族で育ちましたから、看護学生になる前の春休みに特別養護老人ホームでの体験は、「高齢者=寝たきり」という負のイメージが強くなる体験でした。


高齢化社会が来ると盛んに言われ始めていた1970年代ですから、高校生の私にとって70代や80代というのはすごい高齢の人で、どんな暮らしをしているのか想像もつかない別世界の人たちでした。


病院で働くようになって、入院患者さんのほとんどが60代以降の方々で、入退院を繰り返し、そして病院で息を引き取る状況からは、やはり目の前にいる患者さんがどんな生活をしているのか、理解しているつもりでもほとんど理解できていなかったのだと思います。


親が介護や入退院を繰り返すようになって、私自身は患者さんやその家族のことをほとんどわかっていなかったと痛感しました。


また、高校生の頃にイメージしていた高齢化社会とも違って、プールに行けば50代の私が若造になるぐらい元気な高齢者に囲まれていますし、どこへ出かけても老人とはどの年代の誰なのかと思うほど、行動力のある人たちを見かけます。


半世紀前ほど前にくらべると平均寿命が一気に20年も伸びた中で、どう老いるかという社会全体での初めての経験が観察され続け、個々の生活史から「老年期の発達課題」の全体像がようやく見えて来たのかもしれません。


<わかったつもりも過度の一般化も危険>


こちらの記事で紹介した「老年看護学概論・老年保健」(メヂカルフレンド社)の「高齢者心理の背景」(p.29)には、知識だけで理解したつもりになってはいけないと書かれています。


高齢者の看護にあたる者の多くは老いを体験していない。それだけに高齢者の心理を理解するのは容易ではない。人はどうしても未体験の事柄には実感がもちにくく、表面的に事実を受け止めて理解したと思い込んでしまいがちだからである。

そして高齢者心理という一般的な説明に疑問を抱かず、高齢者の言動をパターン化して認識しやすい
高齢者の言動を表面から観察して、頑固である、寂しがる、自己本位で要求が多いといって決めつけてしまうという誤りを犯しやすい。しかし、老いが体験の外にあるということを謙虚に受け止め、一方的・画一的に高齢者の心理や行動を断定する誤りは避けなければならない

高齢者の心理についてのデーターや情報が、高齢者についての言動を理解するための一つの手がかりになることは間違いない。しかし、知識の集積によって高齢者のこころをわかったと思い込んでしまうのは危険である。それらのものでいわれている高齢者についての知識は、高齢者の一般的傾向についてのデーターであって、一人ひとりの高齢者の言動を説明するものではないからである。しかし、それだけの知識では、一人ひとりの高齢者のその時々の心理を理解するにはほど遠いことを認識しておくべきである。

思い込みや偏見をもつことをやめ、高齢者はどうしてこのような行動をとるのだろうか、と考えてみることから、高齢者のこころをみるようにしなくてはならない。老いの体験のない者は、高齢者の心理についての正しい知識を学ぶとともに、一人ひとりの高齢者に向き合うことから、高齢者の心理状態や感情のありようを学びとることが大切である。


ああ、なんてすっきりした文章でしょうか。


対象の生活史を観察し続け、個別性に合わせたよりよいケアとは何か、社会の変化はどうなのかと多様な角度から何度も何度も考察を重ねたからこその文章なのだと思います。


「高齢者」を「妊産褥婦や新生児」に置き換えて読むと、わずか30年ほどの間に、看護の他分野に比べて助産の方向性がどんどんとかけ離れていることが見えてきます。



「いいお産」「自然なお産」「産む力生まれる力」「みんな母乳で育てたいはず」
社会の変化も見えずに、「こうすれば幸せなはず」という過度の一般化が多い「助産学」とは大違いですね。


きちんと対象の観察をもとにケアを考えていれば、妊娠・出産を迎える世代の発達課題に対しても同じ考察が見え始めていたはずなのですけれど。
助産師の世界はどこへいくのでしょうか。




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