事実とは何か 26 <地下鉄道網が広がった理由>

地下鉄についての興味深い本を、もう1冊読みました。

「東京の地下鉄路線はどのように作られたのか」
東京地下鉄研究会著、洋泉社、2017年2月2日

銀座線が一番古くて、昭和初期に国内で初めて開通したことなどは、20年ほど前に図書館で借りた本で読んだ記憶があります。
その後、本格的に都内の地下鉄が次々と開通したのは、戦後に首都圏の人口が増えたことや車社会になって路面電車を廃止する必要性があったからだろうぐらいに思っていました。
私が子どもの頃にもまだいくつか路面電車の路線があったようで、乗った記憶があります。


ところが、この本を読んでその認識が違うことを知りました。


第一章には「通勤者が激増していた戦前の東京」の「すでにパンク状態だった市電」の中で、地下鉄が開通する前の明治時代の状況が書かれています。

 当時の状況は、人口が200万人を突破し、都市の規模が急速に拡大しつつあった、そのため、貨物や人の輸送力を高める必要性に迫られ交通機関の整備が急ピッチで進められていたのである。
 主要な交通機関は人力車や乗り合い馬車だった時代が続いた後、明治36年(1903)になって民営の東京電鉄鉄道が品川・新橋の区間路面電車を開業する。
 この路面電車はその後、東京市が買収して「市電」となった。大正9年(1920)には、総延長100キロメートル以上におよんで東京市内をくまなく走るよう整備され、市民にとってはなくてはならない足となっていた。


さて、驚いたのがその通勤風景です。

 ところが、この頃の車両は、人口増加の一途をたどっていた都市・東京の足となるのには極めて小さいものであった。一車両に乗れる乗客はせいぜい70人。常にすし詰めの状態であったという。しかも当時から長距離通勤が多いという傾向があり、超満員の電車に長い時間揺られることになった。これは現在の都民の状況と同じといってもいいかもしれない。それでも乗車できればまだいい。乗り切れない客は、走る電車の外側にぶら下がる危険を冒してまで乗車していた。毎日命がけの通勤を繰り返していたのである。行く先々の停留所では積み残しの客であふれ、とても女性や子どもが乗れるような代物ではなかった。その上、車両のスピードも遅かったために周辺の道路での渋滞を招き、ダイヤが乱れることも日常茶飯事だった。いつ電車がくるのか、また、いつ目的地に到着するのかも見当がつかない状況が続いていたのである。そんな東京の殺人的な超満員電車の存在は、いつしか全国に知れ渡っていた。
(強調は引用者による)

東南アジアで経験したさまざまな交通手段が路上にあふれ、乗り切れないと屋根の上に移動する状況が日本でもあったのですね。
そして、終戦直後には山手線での子どもの圧死が起きたほどの。



国土交通省鉄道主要年表を見ると、1869年(明治2年)に鉄道建設の計画が立てられた後、明治・大正時代にかけて次々と現在のJRや私鉄に発展する鉄道が建設されているのですが、それでも「殺人的な超満員電車」が改善されなかったというのですから、当時の状況はどんなものだったのでしょうか。


1927年(昭和2)に浅草・上野間の地下鉄が初めて開通したあと、紆余曲折を経て1940年(昭和15)に帝都高速度交通営団営団地下鉄の前身)が作られたところで太平洋戦争になり、地下鉄建設は一旦中断されたようです。


その後、1959年(昭和34)に丸ノ内線が開通し、日比谷線東西線、千代田線と次々と建設が始まり現在のような緻密な地下鉄網が築かれていった様子が紹介されています。


昭和・平成の野蛮な通勤風景だと思っていましたが、1世紀前の日本人から見たら夢にも思いつかないほど正確な運行で、安全で、そして快適性のある鉄道網を私たちは享受しているのですね。





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