散歩をする 425 毛長川沿いに毛長堤を訪ねる

舎人ライナーの終点の見沼代親水公園駅から東武東上線の手前まで、2017年に毛長川の近くを歩きました。

今回は東武東上線谷塚(やつか)駅からスタートして、3本の川が合流するあたりまで歩くことにしました。

 

まっすぐ県道49号線を南へと毛長川を目指してしばらく歩きましたが、前方に川の気配はありません。

突如として「水神橋」がありました。

こうした都内の低地の川や運河にかかる橋というのは、対岸が見えないような高さ2~3メートルのアーチ型が多い印象ですが、この水神橋は道路の高さと変わらずに毛長川を越えて、埼玉県から都内へと入りました。

それほど深くはないところに毛長川が流れています。浸水する危険が少ない場所なのでしょうか。

「江戸の街を利根川中流からの洪水から守る」ような地形は、なんだか想定外でした。

 

 

足立区側は防水堤のような団地群文教大学のキャンパスで、広々とした場所が続いています。

 

しばらく東へと歩くとその先に立派な石垣と竹藪が見えます。城址だろうか、毛長堤についても何かわかるかもしれないと期待して入り口の方へと回ったところ、残念ながら休園日でした。

帰宅して検索すると、1984年(昭和59)に足立区制50年を記念して建設された日本庭園とのことでした。

日本が「先進国入り」し、立派な建物が街にあふれ始めた時代の記憶に繋がりました。その時代からさらに40年ほど経ったのですね。

 

 

*毛長川沿いの地域の記録*

 

このあたりから毛長川沿いに遊歩道があり、東京都側には団地、対岸の埼玉県側は一戸建ての住宅地と対照的な風景が続いていました。

毛長川は川岸から2~3m下をゆっくりと流れています。

 

団地の片隅に、岩を積んで高くなった場所に小さな祠がのっていました。

自転車置き場のよこが小さな参道になっています。富士塚かもしれないと立ち寄ってみました。

花畑浅間神社富士塚

 富士塚とは、富士山を信仰する人々の集団である富士講によって築造された塚である

 富士山の溶岩石を使用して小山を築き、頂上に浅間神社の祠を祀り、烏帽子岩小御岳(こみたけ)社をはじめ、実物の富士山と同様に各名所を配するのが一般的であり、登山して参拝できるようになっている。

 富士山信仰は、文化・文政年間(一八〇四〜一八二九)に江戸を中心として爆発的に広まり、多くの講中が結ばれ、講の発展に伴い富士塚の築造も盛んに行われるようになった。

 この富士塚は、千住神社、保木間氷川神社富士塚と同じく伊藤参行を講祖とする丸参溝による築造である。築造年代は明らかではないが、石鳥居の年代や伝承により明治初年(一八七二)と考えられている。また、花畑大鷲神社には、この講中により明治五年の紀年のある富士登山絵馬が奉納されている。

 花畑浅間神社は社殿を持たず、富士塚の頂上に祀る浅間神社をそのまま社名とし、「野浅間」といわれている。

 神社の北側を流れる毛長川流域には、多くの古墳や遺跡の存在が確認されており、この神社もその形態から古墳を利用したものと考えられており興味深い。

 昭和五十九年(千九百八十四)十一月、足立区登録有形民俗文化財とした。

  令和元年十二月    東京都足立区教育委員会

 

 

説明文は平易な言葉なのですが、この行間を理解するにはまだまだ知識が足りなさすぎました。

ただ、「社殿を持たない神社」があることが印象に残りました。

 

さらに川沿いのその遊歩道を歩くと「毛長公園」という大きな石碑があり、近くの公園に説明が彫られた大きな石碑がありました。

この公園は、私たちが行う土地区画整理事業に依る公園です。古老の話では大鷲神社の北約百米位の場所に浅間神社がありましたが、現在の場所に大鷲神社遷宮なされましたので、浅間神社の移転先を西方富士の方に引越しなされたと云うことを聞いています。浅間神社跡地の碑があり第二次世界大戦中には照空燈の陣地となり、終戦後まもなく都立聾唖学校となる両地が見えるところなので浅間第一公園と銘名す。   昭和54年

興味深いのは、「新潟県御影石」であり「茨城県笠間市の石材店」で造られたことまで記録された石碑でした。どんなつながりがあったのでしょう。

 

 

ほんの少し周囲より高くなった場所に鎮守の森が見え、大鷲神社がありました。

池もある大きな神社で、「おおわし」かと思ったら「おおとり」と読むようです。

大鷲神社

 大鷲神社の創建は古く、祭神は日本武尊である。日本武尊は、第十二代景行天皇の皇子で、景行天皇に東征を命じられ、その帰路に当社に立ち寄ったという。また、平安時代には、源義家の弟である新羅三郎義光が奥州の役に赴く途中、社前に戦勝を祈願したと伝えられる。

景行天皇」、昨年奈良の周濠を訪ね歩いた時にその名前を知りましたが、毛長川流域の歴史と少しつながりました。

 

神社のそばに「想定浸水深 最大2.0m」の表示がありましたが、よくよく読むと「ここは利根川がはん濫すると最大2.0m浸水する可能性があります」と書かれています。

 

中条堤について知らなかったら、川の名前を間違えているのではないかと思ったことでしょう。

やはり、現代でも利根川のはん濫はここまで到達する可能性があるのでしょうか。

 

 

*川合を渡り、葛西用水路へ*

 

いよいよ、3本の川が合流して綾瀬川になる場所を渡りました。ここは足立区に入るようで、区立桑袋ビオトープ公園がありましたが残念ながら休園日でした。

さらに残念なことに、このあたりで何枚か写真を撮ったのにiPhoneから消えています。やはりデジタル社会の怖さですね。

 

綾瀬川を越えると再び埼玉県に入り、低湿地だったと思われる場所は忽然として工業団地になり大型車が行き交う場所になりました。

車が次々とくる道を怖々と白線だけの細い歩道沿いに歩き、再び住宅街に入って葛西用水路へと出ました。

この辺りは、水路がまだ住宅地に残っていてかつては水田地帯だったことが感じられました。

 

葛西用水路もまた利根川から取水した水路で、現代では遠く感じる利根川と江戸が繋がっていることを実感する散歩になりました。

 

ところで、毛長堤はいったいどのあたりなのでしょうか。

 

 

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