散歩をする 15 <岩淵水門>

20年以上前、玉川上水に関心があって多摩川の上流から下流を歩いたことがありました。また、ダムなどを見る機会が多かったので、首都圏の河川について図書館で本を借りて読んでいました。


多摩川は支流はあってもそれほど複雑な流れや地形ではないので、地図を覚えるのもそれほど難しくはありません。
ところが、利根川や荒川、あるいは中川や江戸川などになると複雑で、何度地図を見てもなかなかその位置関係を覚えられませんでした。
たぶん、それだけこの地域が水害とともに変化して来た歴史があり、それが理解しきれていなかったからかもしれません。


それでも、その頃に知った岩渕水門は、地図をみるたびにいつか行ってみたいと思っていました。


荒川放水路の中で、岩淵水門のことを紹介しました。

1924年大正13年)の岩淵水門完成により放水路への注水が開始され、浚渫工事など関連作業が完了したのは1930年(昭和5年)のことである。以降、東京は洪水に見舞われることは無くなった。その後も荒川放水路により分断された中川の付け替えや、江戸川放水路の掘削が行われ、ほぼ東京周辺の流路が完成することになった。


<旧水門と新水門>


岩淵水門は2つあるのですが、1982年(昭和57)に新水門(青水門)が完成したことで役割を終えるはずだった旧水門(赤水門)が保存されたとWikipediaの説明に書かれています。
私が20代前半の頃に新水門が完成したようですが、全く記憶にありません。


30年以上前の隅田川は、現在に比べるとまるでドブ川のように汚れた川でした。
コンクリートで囲まれた大きな水路といった印象でしたが、2000年代に久しぶりに隅田川周辺を歩いた時に、素敵な遊歩道と美しい橋の風景に変わっていました。


この風景があるのも、この岩渕水門があるからこそなのですね。


なぜ新水門が造り直されたかというと、単に旧水門が老朽化しただけではなく、「完成以来、最大2m以上にもおよぶ地盤沈下や、左右岸の不等沈下が発生するなどの問題に悩まされ」たとあります。
そして新水門については、以下のように説明されています。

旧水門の老朽化、地盤沈下対策、また洪水調整能力の強化を考えて、300mほど下流に作られた。1974年(昭和49年)に着工し、1982年(昭和52年)に完成した。事業費は約70億円。200年に1回の大洪水にも耐え得るように作られている。RC造で、10m幅のゲート3門で構成されている。重さは1枚あたり214tで1500tの水圧に耐える。増水時には、水門を閉じ、荒川上流と隅田川の水流を途絶させる。通常の閉鎖にかかる時間は45分だが、クランクハンドルによる手動の閉鎖では30日かかる計算になる。これでは大地震等で電源を喪失した場合に閉鎖できなくなってしまうため、自家発電装置や電源が無くても門扉を自重で降下させる装置の設置が行われている


なんと100年に一度の洪水ではなく、この時期に「200年に一度」まで考えて計画がされていたのですね。



<失敗学から安全対策が生み出される>



その荒川と隅田川の分かれる場所に、荒川知水資料館があります。
その展示をみて、「自家発電装置や電源が無くても門扉を自重で降下させる装置」が机上の計画ではなく、失敗学に基づいたものであることを知りました。


いつの台風だったのかメモを取り忘れたのですが、旧水門を閉鎖しようとした時に地盤沈下によるズレで閉鎖に手間取り、総出で手動で閉め、危機一髪で隅田川流域の大洪水を回避できた話が展示されていました。
これが新水門の閉鎖方法に生かされているのですね。


また、2012年にアメリカで発生したハリケーンでの対応策から、荒川下流タイムライン(事前防災行動計画)が立てられたことも展示されていました。


知水資料館に展示されていたジオラマをみると、大横川親水公園小名木川のある地域は、海抜0メートル以下の色になっていました。


こうして幾重にも安全対策が考えられ、備えられているからこそたくさんの人が生活することができるのだと改めて思いました。





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