水のあれこれ 288 百間川と「川除けの法」

2018年に20年ぶりぐらいで岡山を訪ねた時、事前に県内の川や干拓地を頭に入れて出発しました。吉井川を渡りしばらく水田地帯を走ると、岡山駅に到着する直前に二本の川を渡るはずです。車窓に顔をつけてみていると、一本はほとんど水が流れていなくて「百間川(ひゃっけんがわ)」と表示がありました。

 

現代の放水路だろうと思ったままになっていたのですが、今回17世紀にはこの川の下をサイフォン式で水路が通っていたことを知りました。

 

 

百間川の歴史*

 

Wikipedia百間川の説明を読むと、放水路ではあるのですが川の歴史は古いようです。

百間川(ひゃっけんがわ)は、岡山県岡山市南部にある人工河川。旭川放水路とも呼ばれる。2019年9月4日の国際かんがい排水委員会の国際執行理事会において、令和元年度にかんがい施設遺産に県内で初めて登録された。

 

「歴史」には以下のように書かれています。

岡山城付近を流れる旭川は、安土桃山時代に行われた築城工事の時に、蛇行するよう付け替えられ、河道も狭くされたことから、岡山城下はその後たびたび洪水に見舞われるようになった。特に1654年(承応3年)に起こった大洪水は城下に甚大な被害をもたらしたことから、当時岡山藩に出仕していた陽明学者の熊沢蕃山が、洪水対策として「荒手」と呼ぶ越流堤と放水路を組み合わせた「川除け(かわよけ)の法」を考案。岡山藩郡代の津田永忠はこの構想を基に、3段の荒手により水勢を弱めながら旭川の氾濫を越流・放水させる百間川を設計した。1699年(寛文9年)に永忠の指揮で着工し、1686年(貞享3年)に完成したと伝えられている。江戸時代を通じて完成当初の姿で洪水から岡山城を守った。

Wikipedia)

 

後楽園用水の先人の記録で引用した「Gochaごちゃサイトfrom OKAYAMA」百間川の記事に江戸時代の地図があり、それを見ると、現代の吉井川・百間川旭川河口付近の干拓地はすでに江戸時代にはできていたようです。

 

こちらのサイトの百間川については「Wikipediaを参考」にしてまとめたと書かれていますが、Wikipediaには書かれていなかった以下のような箇所もあります。

 寛文9年(1669年)、永忠から「川除けの法」を聞いた仕置家老が3名の家臣に、現在の分流部についての検分を命じるが、藩主光政の指示は、京橋(後楽園下の重要な橋)の雁木のここまで以上に水が増水しないよう荒手の高さを設計せよという、具体的で、今ですらとても予測困難な要求だった。ともかく、分流部の荒手は造られた。だが、放水路はまだで、河口部の水門は「洪水対策」「内水対策」「高潮対策」の3つの役割を兼ねた極めて高度な技術を要する部門。後に永忠が手がけることで貞享3年(1686年)にやっと百間川の完成を見ることになる。

 ただ、水田地帯の中に2本の堰堤(百間川の両堤)が河口まで連なっているだけで、堰堤の高さは2メートル前後という、現在から見れば、極めて小規模なもの。とはいえ、昭和40年代に行われた国の大改修事業まで、この景観がずっと続いていた。

(「Gochaごちゃサイト from OKAYAMA」より、強調は引用者による)

 

岡山城下を洪水から守るだけでなく、干拓地の洪水対策も考えられていたということでしょうか。どんな風景だったのでしょう。

 

 

旭川放水路へ*

 

17世紀終わりに造られた放水路は、近代に入り大改修が行われたようです。

旭川は明治以降相次いで氾濫して岡山市街地が水害に見舞われたため、1926年(大正15年)から大改修が行われた。百間川では1961年(昭和36年)の第2室戸台風災害を契機に、1963年(昭和38年)から建設省(現・国土交通省)が改修に着手。1968年(昭和43年)に河口部の水門と堤防の整備を終えた。次いで中・上流域で、河川区域に低水路を開削して高水敷を設け、さらに堤防を整備する河道整備工事が1974年(昭和49年)から1983年(昭和58年)まで行われ、岡山県下で戦後最大を記録した1972年昭和47年7月豪雨時の流量(毎秒800㎥)に耐えられる構造となった

 

この工事にともない、建設省による河川区域内の水田の買収が1971年(昭和46年)から進められ、江戸時代から続いた耕作が消滅した。また旧山陽道など一部を除き、陸閘で河川区域を横切っていたほとんどの道路が新規に架けられた橋に移された。

Wikipedia、強調は引用者による)

 

東海道本線山陽本線を乗り継いで倉敷の祖父母の家に行った頃には、まだこの江戸時代からの水田風景だったのですね。

そして中学生の時に初めて山陽新幹線に乗って岡山へ行ったのは、江戸時代からの水田風景と引き換えに旭川放水路の整備という時代の背景があったのだとつながりました。

 

「川除けの法」から現代の放水路へ。

今度は百間川沿いを歩いてみたくなりました。またまたやり残した課題が積まれていきますね。困りました。

 

 

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