水のあれこれ 323 最上川と赤川

いつか最上川と庄内平野を歩いてみたいと思っていたので、地図を眺めては「ここに行ってみよう」「ここに泊まろう」と妄想の旅をしていました。

 

鶴岡に泊まってみたいと思ったのは、1泊2日の日程的にちょうど良さそうだったのと、そこにお堀が描かれたお城があったからでした。どこからお堀の水を得ているのだろうと眺めると、近くに赤川があります。

地図を拡大すると、庄内平野には最上川だけでなくこんなにたくさん南北に流れる河川があるのかと引き込まれました。

 

何度も地図を繰り返し眺めているうちに、最上川の河口付近に京田川が合流し、そこに水門らしい場所があることに気づきました。その水門へと細い水路がまっすぐ描かれ、三川町でぐいっと赤川が日本海側へと曲がっている場所と繋がっています。

さらに拡大するとその水路のそばには試田、西新田、一番割といった地名の水田地帯があるようです。

ここで、現在の赤川はもしかして放水路ではないかと閃いたのでした。

 

Wikipediaの赤川では、赤川新川について書かれていました。

大正時代までは海岸に沿って北へ流れ最上川に合流していた。合流部付近で頻発する洪水に対して、庄内平野の水田を潰し川幅を広げる案も考えられていたが、より利用価値の薄い砂丘を切り開き日本海に直接放流する新水路の開削に着手し、1927年(昭和2年)7月赤川新川が完成した、旧河川跡は埋め立てて水田に利用されている。

やはり京田川からのまっすぐな水路のあたりが、赤川の旧河道のようです。

 

 

*赤川の歴史*

 

国土交通省東北地方整備局の「赤川」を読むと、放水路が完成したのは戦後のようです。

赤川はかつて、最上川に合流していましたが、庄内地方の総合的な治水対策の視点から、庄内砂丘に設けた新たな河道「赤川放水路」により、昭和28年、最上川から完全に分離されました。

 

国土交通省酒田河川国道事務所に「赤川今昔物語」がまとめられていて、かつて水害に悩まされていた時代について書かれています。

「暴れ川」の異名を持つ赤川はこれまで幾度となくはんらんと浸水を繰り返してきました。記録として残っている一番古い水害は長承2年(1134)に起こった水害で、そのときは50日間も水がひかなかったといわれています。

豪雨や暴風雨とともに、明治42年には融雪洪水の記録が書かれていました。

 

 

東北地方整備局のサイトでは「大正11年からの2.8kmにおよぶ庄内砂丘の開削工事により」とありますが、酒田河川国道事務所の「赤川今昔物語」ではその治水に貢献した方のことが記録されていました。

榊田清兵衛は赤川の治水工事を行った代表的な人物です。

大雨のたびに洪水が起こるため、田園を潰して最上川に繋がっている赤川の川幅を広げるという治水工事の話を聞いた清兵衛は、政府に願い出て、田園をつぶすかわりに砂丘を掘って新しい川の流れを作る工事を始めてもらいました。

この工事により赤川は最上川から独立した川になりました。

 

榊田清兵衛は江戸末期に生まれ1929年(昭和4年)に亡くなられたようですが、当時の全国各地で放水路が作られた時代の影響もあったのでしょうか。当時はどのような雰囲気だったのでしょう。

 

 

赤川放水路ができたのちにも、昭和40年代から62年までに大きな水害が起きているようです。

 

 

最上川から独立した赤川水系の流域と、かつての旧河道の地域をみてみたい。

地図を最大に拡大してバス路線を探したのでした。

 

 

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