つじつまのあれこれ 11 <補償問題は切り分ける>

「法は人に不可能を強いてはならない」で紹介した「なぜ、無実の医師が逮捕されたのか」の中に、「ああ、これがもしかしたら産科医療補償制度が始まるきっかけだったのか」と驚く話がありました。


「これは逮捕されちゃうな」(p.277〜)の中に、福島県が準備した事故調査委員会報告書がその後の状況を大きく変えることになったことが書かれています。

安福  加藤先生にまずお話を伺いたいのですが、福島県事故調査委員会の事故報告書(平成17年3月22日)は、先生もご覧になったはずですが、ご覧になったのは県が記者会見で発表する前だったのですか?
加藤  前ですね。外来が終わった時に事務長さんが持ってきて見せていただいたのです。
安福  それを読んだ時の最初の印象は?
加藤  通常であれば、これは逮捕されちゃうな、という内容。
安福  先生は、その場で、これだったら自分は逮捕されるという思いはどなたかにお話になったのですか?
加藤  その時に持ってきてくれた事務長さんに、その場で読んで、直接、その場で話をしました。その時に言われたのは、ご遺族の補償のためにと言われました
安福  事故調査委員会は、えてして本来の事故調査が目的ではなく、その事故の解決を図るためには、ここは堪えてくださいみたいな報告書が出来上がる。その件は、まさに過失があったと書かなくては保険が出ない典型例だったと思います



(引用者注:「福」は示偏です)

賠償のためには、どこかに過失があることが前提になる。



それがまかり通る業界だと思い及ぶこともなく、30年以上も働き続けて来たのだと、改めて怖さを感じています。
産科の場合、脳性麻痺に関しては産科医療補償制度という「無過失補償制度」が作られおかげで、精神的な負担がだいぶ減りました。
それでも、脳性麻痺は周産期医療の中の不確実性のひとつにすぎず、産科医や分娩施設に対する民事訴訟や刑事訴訟のニュースを今も時々耳にします。


補償問題と原因追及は切り離さなければ、どこかでつじつまをあわせるために事実を掘り起こすことがうやむやにされていくのではないかと不安になります。



冒頭の本の「『究明』か『糾明』か」(p.260〜)には以下のように書かれていました。

 事故調査とは、本来、科学的真相の「究明」である。様々な視点で多角的に幅広く調査し、事故原因を科学的に徹底的に極める制度であり、それが目的である。
医療事故はいくら誠実に調査しても、結果は、三択の答え、要するに、「何が原因で起こったのかわからない」との結論が出る可能性がいくらでもある
 医学研究の深化、進歩により昨日までの常識が覆るのが、医療の現場である。
 調査の過程で多角的に医療行為の推論がなされ、システムの反省が論じられ、同時にさまざまな科学的な知見が得られる。
 それらを積み上げていかなければ、事故の再発を防止することはできないから、事故調査を丁寧に行えば、医学の進歩を支える基盤となりうるのである。

 他方、司法制度は、民事であれ、刑事であれ、基本的には個人の責任の追求としての「糾明」である。求める答えには二択しかない。すなわち、刑事なら、有罪か無罪かの二択、民事なら原告請求が正しいか、正しくないか。要するに、「判らない」という答えはあり得ない。
 同時に、判決(結論)を下すに足りる証拠が得られれば、それ以上の証拠は必要もなく意味もなく、それ以上の検討も行わない。

 判決文には、「その余を判断するまでもなく」との記述がなされることも多い。
要するに裁判の過程で、事故再発防止策にどれほど、貴重な情報やデータがあっても、司法の眼からは余計な事実、事情でしかない、ということである
 つまり捜査で得られた証拠が、すぐれた医学上の知見であったとしても、捜査を進める上で意味があるとは限らない。その意味がなければ、「これが事故の原因かもしれない」という重大な事実が判明して医学的には更なる検証、検討が求められるとしても、西岸の場でそれが行われる余地はない。まして、事故から新たに発見される科学的知見は、無視される。
 だからすぐれた医学上の知見が得られても、それが司法手続きにのった証拠である限りは、世に明らかにされるのは難しい。社会に還元されることなどあり得ない。

長い目でみれば、「一生に一度遭遇するかしないか」という事態に対応した専門家の貴重な経験を、その後に活かすか殺すかという分かれ道が、こういう裁判なのだと、前回のニュースを読んだ時の違和感の正体だったのでした。




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