散歩をする 16 <六義園周辺を歩く>

岩渕水門への行き方を考えながら地図をながめていると、六義園が目に入りました。
清澄公園と同じ、都立文化財庭園のひとつです。


公園に関心が出る以前から、とあることで気にしていた庭園です。
それはあの中村礼子さん北島康介氏が練習をしていたプールが近くにあることでした。


六義園に行くのなら、降りた事がない駅からスタートし、歩いた事がない道をあるいて、あのプールの横を通ってみよう」と思いついたのでした。って、ミーハーですね。


副都心線雑司ヶ谷駅で降りました。
駅の案内板に豊島区立雑司ヶ谷体育館があって、温水プールもあるようです。そこで泳いでからと一瞬迷いましたが、今日は先を急いでいるので都電荒川線に乗りました。
西原4丁目で降りて歩いていくと、墓地が両側に広がります。
北島康介氏は、この墓地を通り抜けて練習に通っていたのでしょうか。


途中で、このあたりからソメイヨシノが広がったという説明板がありました。
なんとなく記憶にある話ですが、検索してみると
「巣鴨周辺マップ」にはこう書かれています。

染井吉野」という桜は、巣鴨にあった染め井村の植木屋が、江戸時代末期から明治時代初めにかけて全国に売り出した品種です。当初、奈良県山岳部の桜の名所「吉野山」にちなんで「吉野桜」と命名していましたが、吉野山の桜はヤマザクラの類であるため、誤解を招くとして取りやめとなりました。その後、明治33年(1900年)、上野公園の桜を調査した藤野奇名博士が、「染井吉野」と命名して「日本園芸会雑誌」に発表し、この名が定着しました。

私が歩いていたのが、染井霊園のようです。

染井霊園の敷地は、そもそも播州林田藩の屋敷跡で、染井という名前の泉があったことに由来しています。桜の代名詞として広く知られる染井吉野はこの地が発祥で、江戸末期から明治初期にかけてこの近辺の植木職人が全国に向けて売り出したものです。

染井吉野ひとつとってもその歴史をたどると、面白いですね。


さて、霊園を過ぎると、今日も中村礼子さんや北島康介氏を目指しているたくさんのニモたちが通っているプールがありました。
なんだか感無量の気持ちで先を急ぎ、しばらく歩くと六義園に着きました。


そろそろシダレザクラのライトアップが始まる時期だったのですが、園内は梅が終わってコプシの花がチラホラと咲いているぐらいで、まだ冬の様相でした。
広大な敷地に入ると、周囲の車などの音もほとんどなくなって静寂の世界です。
渓流を模して作られた流れの傍にあるあずまやにしばらく座っていましたが、人の声もなく、水音だけが響き、まるで山の中にいるかのような錯覚を起こしそうでした。


すべてが計算されて配置され、そして手入れされているこうした日本庭園は、人工的だけれど自然美だなあと思いながら出口にあった石碑のひと言に目が止まりました。

自然ト人工ノ妙ヲ尽クセシ
(*「尽」は旧字)

しばらく、ぼーっとして、先を急ぎました。
その日は、ちょっと欲張ってもう少し歩いたのでした。



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