散歩をする 20 <父の記憶を歩く>

昔、父が坐禅の修行に通っていたお寺が、関東にいくつかあるようです。
そうだ、そのお寺の近くを歩いてみようと思いついたのでした。


そのうちのひとつが、横浜市内にあります。
早速、地図をつらつらと眺めてみると、そのお寺とは少し離れていましたが、なんとか歩ける距離に「馬の博物館」がありました。


馬が好きな父なので、きっとそこにも立ち寄ったのではないか、いや反対に馬がいる近くのお寺を修行の場に選んだのかもしれないと、勝手にあれこれと想像しました。


おおよその道順を頭に入れて、根岸駅に到着しました。
駅の目の前に立ちはだかる、タモリさんが喜びそうな段丘を前に、ちょっと後悔しました。
そうか、地図で道がつづら折りのようになっていたり、行き止まりの道が多い印象だったのは、この高低差だったのですね。


以前、横浜に用事で行った時もこれで失敗した記憶が甦りました。
地図では直線距離で10分ほどだったのに、実際にはアップダウンの激しい道で倍近く時間がかかり、翌日には筋肉痛になったのでした。


ああ、今日は散歩ではなく、ハイキングか登山かというレベルだと覚悟を決めました。


ほとんど人が歩いていない急な坂道を、下を向きながら歩くこと十数分。
ふと目の前が開けるような場所に広大な根岸森林公園があって、その一角に馬の博物館がありました。
近くに米軍の施設はなさそうなのですが、不思議なことに米軍の消防署だけがありました。



<馬と戦争>


展示の説明の中で、この地域と米軍の関係が少し書かれていました。


もともとは「馬の博物館とは」に書かれているように、明治時代に外国人寄留者の競馬場があったそうです。
その後、日本人にも競馬が広がっていきました。
展示の説明には、こんなことが書かれていました。

昭和10年になると軍事色濃い世相の中で、横浜を始めに本競馬会の各競技場は入場者数、売り上げとともに上昇の一途をたどった。
ところが、1942年、軍港が一望できるとの理由で海軍省に接収された。(要旨)


その頃は戦争のために娯楽や贅沢などもってのほかという雰囲気や、男性の多くが召集されたという戦前のイメージがあったのですが、それはもう少し後の時期なのでしょうか。それともなんだか破れかぶれの気分で、競馬場へと人が集まったのでしょうか。


終戦とともに、この地に米軍の施設が作られたようです。

終戦後、アメリカ第8軍によって占領された一等スタンドが、アメリカ陸軍のための地図とパンフレットを印刷する工場になった。600人の日本人労働者が働き、賃金は日本政府によって支払われ、食料や住宅も供給されていた。

米軍の消防署だけが現在残されている理由を探すと、きっとまた興味深い歴史話が広がるのでしょうね。


さて、併設されているポニーセンターも行ってみました。
近づくと、厩舎の中に馬がいる気配がします。
平日にもかかわらず、馬が好きなのだろうなと思う人たちが数人、厩舎の前で静かに馬を見ていました。
もしかしたら、父もここに立って馬を見ていたかもしれないですね。


競馬で活躍した馬もいました。
その大きな競走馬に混ざって、小柄な馬がいます。
「野間馬」という日本在来種だそうです。

明治時代に入ると、政府が軍馬の育成を奨励し、小さな馬の生産や育成を厳しく取り締まったため、野間馬は衰退の一途をたどってしまいます。第二次世界大戦後はさらに、農業の機械化が進み、農耕馬としての野間馬の出番はほとんど無くなってしまいました。

たまたま戦争の時代に生まれたことで、馬も人も大きな影響をうけてしまうのですね。
軍国少年として育った父は、なぜ馬が好きになったのでしょうか。



展示の中で、もうひとつ、興味深い説明がありました。
「明治時代には、横浜以外にも各地で競馬が行われていた」そうで、都内では、九段招魂神社(現靖国神社)や戸山陸軍士官学校などに競馬場があったそうです。


陸軍士官学校時代に、父は馬を身近に見ていたのでしょうか。
現在の戸山付近にはその痕跡もないと思いますが、次回は、父の記憶を辿ってその周辺を散歩してみようと思いました。





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