行間を読む 114 府中本町の変遷

まるで浦島太郎のような気分になった散歩ですが、小学生の頃にこの辺りを通った記憶が少しずつつながってきました。

小平霊園で墓参をし、東久留米の祖母を訪ねるためで、おそらく川崎街道から是政橋を渡って府中街道を通り、小金井街道、そして玉川上水のそばの交差点から五日市街道を通って小平霊園でお墓参りをしたのだと思います。

そして帰りは東久留米から府中街道をまっすぐ走ったのだと思いますが、左手に真っ白な高い壁が続き、右手は多分、キャベツだったと思うのですが広々と畑が続いていたその帰路の光景が記憶に残っています。

ところが、その手前の国分寺崖線の記憶もないし、1933年(昭和8年)にはすでにあったはずの東京競馬場の記憶もありません。

 

ただ、広々とした平地に農地が広がり、刑務所があった記憶です。

 

1990年代にこの辺りを通ることがあり、刑務所に隣接して住宅街が広がったことに驚いた記憶はあるのですが、まだ国分寺崖線や立川崖線は目に入っていなくて、多摩川沿いの平地のイメージでした。

 

*「府中本町の駅名の由来」*

 

Wikipedia府中本町の駅名の由来に、東側の小高い場所について書かれていました。

この地には古い歴史があり、それが当駅名「府中本町」の由来となっている。

鎌倉へ至る鎌倉街道のルート上で経済的にも重要拠点に位置し、中世には当地が「本町」と呼ばれていた。富士山まで見渡せる景勝地でもあることから府中御殿が建築され、その後も本町として発展してきた地であり、それが当駅名の由来ともなっている。

 

そして、あの記憶に残る農地は、府中用水によって開拓されたものでしょうか。

府中崖線の南側に沿って流れる約6kmの農業用水路。7か村用水とも呼ばれる。江戸初期(1693年)に多摩川の古い河床を利用して開削され本町・番場宿・新宿・青柳村・上谷保村・下谷保村・是政村の七か村を通り、農地に水を供給し、生活用水となっていた。ハケからの湧水と国立市青柳にて多摩川から取水し、途中で谷保分水が分かれる。都立府中西高校の北側で府中市に入る。各所の田畑を潤した後に多摩川に戻る。 

 

散歩の記録にしていなかったのですが2018年頃に、矢川緑地から谷保のあたりの湧水と水路を歩き、田畑が残る美しい風景に圧倒されました。

きっと私が小学生の頃は、府中街道沿いも同じような風景だったのですね、江戸時代に開拓された長い歴史とともに。

 

 

府中の森公園と旧米軍府中基地

 

今回私が歩いたのは「府中市郷土の森公園」ですが、間違って府中の森公園を検索してしまったら、思わぬ歴史を知りました。

旧米軍府中基地の跡地利用の一つ。公園敷地内に府中市美術館があり、府中の森芸術劇場と府中の森市民聖苑が隣接している。道路を挟んで東隣りに航空自衛隊府中基地がある。 

Wikipedia府中の森公園」「概要」)

 

京王線の北側にも広大な公園があり、それがこの「府中の森公園」の方です。

地図でこの辺りを眺めていた時に、航空自衛隊があることにも気づきました。

府中刑務所から東に1kmぐらいのところでしょうか。

 

「沿革」を読むと、40年ほど前のようです。

1982年12月16日、米軍府中基地跡地(現在の浅間町一丁目の全域)を3分割して利用することが決定され、北側の3分の1は大蔵省(限・財務省)が、南西の3分の1は地方自治体(東京都)が、そして南東の3分の位置は防衛庁(現・防衛省)が利用することとなった。 

 

1982年、すでに都内で社会人として働き始めていた時期ですが、全く記憶にありません。

 

砂川闘争と同じく、言葉は知っているけれど、その歴史の詳細や地域の生活の変化についてはほとんど知らないことばかりです。

またやり残した宿題が出てきました。

 

 

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