水のあれこれ 216 町裏浄水場から男山配水池公園へ

甲山(かぶとやま)浄水場を訪ねて、いよいよ前回の散歩のリベンジ、男山配水池公園を目指します。

 

姫路市中心部に戻る途中、バスの車窓から馬を運ぶ会社が見えました。こんな街中にと思ったら、近くに姫路競馬場があるようです。

 

11時8分、河間町バス停で下車しました。

なんと読むのか聞き逃したまま下車したのですが、目の前に「町名の由来について」という説明板がありました。

二股(ふたまた)川の二つの流れの間(ハサマ)の町のことで、「コバサマチョウ」は「カワハサマチョウ」の縮んだものです。

天正の頃(1573~1592)すでに、この町名が見えます。中央を通る「野里新道」は、明治期に野里門からまっすぐに白国の陸軍十連隊につけられました。

二股川の一つは威徳寺町前〜寺町〜鍛治町〜掘留町から外濠へ流れ込みました。今一つは八代富士才町から坊主町方面に流れた川で、中濠がそれを利用して出来たものといわれています。総社の「血染池」辺りで合流することで妹背川とも名付けられました。

土地勘がないので地図を見てわかったのは、姫路競馬場の北側にある陸上自衛隊姫路駐屯地のあたりが昔は陸軍十連隊があったのだろうということと、姫路城北側の複雑な流れは、以前は二つの川にはさまれていたらしいということぐらいでした。

 

 

*町裏浄水場から男山配水池公園へ*

 

この野里と河間町のあたりは古い町並みがところどころ残っていました。

町裏浄水場を目指して霊松寺の横の細い道を入ると古い町並みの面影があって、別世界のような場所でした。

浄水場の外側には、浄水場からの余剰の水でしょうか、勢いよく流れている水路が続いています。

浄水場内に、明治か大正の頃かと思われる建物が見えました。

 

浄水場の西側の住宅との間に水路が続いていますが、人が一人ようやく歩けるぐらいの道があります。

反対側から歩いている人がいると、通り過ぎるのを待ってから歩き始めていました。

なんだか水の音に癒され、ゆっくりとした時間にホッとしながら水路をたどりました。

 

一旦住宅地で途切れた水路は、その後、仙波川に合流して姫路城の堀に並行して男山のほうへと流れているようです。

 

静かな城郭のそばの街並みを歩いているとちょうど高校生の帰宅時間で、自転車軍団が何十人も疾走していきました。私が高校生の頃と変わらない風景ですね。

 

姫路城をぐるりと仙波川沿いに歩くと、男山が近づいてきました。

見上げるような石段があり、男山配水池公園の案内がありました。

男山配水池から眺める城の景観は姫路城十景の一つになっています。高い石段を登るとパッと視界がひらけ、眺望絶景。姫路城が姫路市街とともに眼前に展開します。

 

さあ、いよいよだと石段を登り始めました。

手すりがないとちょっと怖いような急斜面の階段を登りきったと思ったらまだ途中で、この70段で諦めました。

これから午後もまだ歩かなければならない場所がありますからね。

 

ちょうど、隣接する男山八幡宮へ降りる道がありました。

八幡宮野案内に「姫路城の姫山に対し夫婦山である男山」とあり、ああそういうことだったのかと知ることができたので、リベンジならずともよしとしましょう。

 

 

*町裏浄水場の歴史*

 

さて今回もまた、先人の記録がありました。

「近代建築を訪ねて(近代建築・近代化遺産・レトロな建物)」というブログに町裏浄水場の歴史が紹介されていました。

1924年大正13年)に、野里小学校校舎増築、姫路城旧野里門際の中濠の埋め立て、北部公設市場の建設の際に偶然に湧水源泉が発見されたそうです。そのことから1927年(昭和2年)に町裏浄水場の起工式が行われたそうです。

 

ああ、だから地図には「町裏水源地」と表示されていたのですね。

 

そのブログで引用している神戸新聞の記事によると、「浄化した水を蓄え各戸へ送る配水池は、南西の男山を削って造られた」とありました。

一世紀前の「清潔な水を豊かに安く」という願いが実現され、その恩恵を受けている歴史がそのままある場所でした。

 

 

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