世界はひろいな 39 <言葉で表現することと発想の差>

私がよく行く区民プールは、日本で暮らしていると思われる外国人の方がけっこういらっしゃいます。
ですから、更衣室でもさまざまな言語が飛び交っている感じです。


少し前のこと、身の回りのこともほぼできる5〜6歳くらいの女の子を連れたお母さんが更衣室にいました。
どうやら、その子が水泳教室に参加するための準備のようで、お母さんの方は着替える様子はありませんでした。


お母さんが英語でひっきりなしに、その子に注意しています。
「何でそこにそれを置くの?」「早くしてね。お母さんは忙しいんだから」「どうしてそういうことをするの?」・・・etcと。


英語で子どもに話しかけているのですが、「発想が日本人っぽいな」と感じました。
きっとあのお母さんは日本人だろうと。



ネイティブのように流暢な英語でも話している内容は日本語の発想というのは、私が東南アジアで暮らすようになった時に、時々日本人の英語を耳にして気づいたことでした。
いえ、もちろん私自身の英語がそうなのです。
あ、それほど私は流暢ではないですが。
どんなに発音を良くしようと努力しても、あるいは英会話っぽいリズムを取り入れても、頭の中での思考が日本人として身につけたものですからそこを変えるのは本当に難しいので、私の英語は上達しませんでした。


言語を習得する難しさは、そのあたりなのかもしれません。



ふと、この親子のことを思い出したのは、「発達」と言う言葉についての解説からでした。


コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)」の「発達」の解説のこの部分です。

学術用語としての発達は、development(英語)やEntwicklung(ドイツ語)を原語としている(中国では、発展とか展開などと翻訳されることが多い)。日本語の発達には、あらゆることから発してある目標に達するという即時的意味が強いのに対して、英語、ドイツ語の原語はいずれも巻物を開いて中身を読む、もつれをほどくといった原義から出て、潜在していた本質が徐々にその姿を現す過程という意味に至った


へーーーーーっですよね。


「発達」という言葉ひとつとっても、同じ意味で会話していると思っていてもそこに至る発想が違うのですから、理解しあうというのは「究極の」とつけてもいいほど簡単なことではないといえるのかもしれませんね。




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