水のあれこれ 44 <立て板に水>

前回の記事で書いたNHKのニュースを観ていて、世の中はテンポのよい会話ができる人に好感を持ちやすいのかなという印象を受けました。


そこで思いついたのが、「立て板に水」ということわざでした。
「立てかけてある板に水を流すように、すらすらとしゃべることのたとえ」「上方(京都)いろはかるたのひとつ」と書かれています。


うーーん。私なら、板に水をかけて流れている様子からは「すらすらとしゃべる」感じを思いつかないのですけれど。
でも、この当時の京都辺りの人たちには、この感覚が共通して認識されたのでしょうか。おもしろいなと思いました。


立て板に水を検索していたら、その反対が「横板に雨だれ」だということを初めて知りました。
「詰まりながらものをしゃべるたとえ」


私はどちらかというと横板に雨だれですね。
ブログでは長文を書き散らかしているのですが、実際に話す時にはつっかえつっかえになりやすいです。


<なぜ話すのが苦手なのか>


父の難聴のことを書きながら、きっと小さい頃からの家庭環境の影響も大きいのかもしれないと思います。


我が家で会話が少なかったのは、決して「相手に無関心」でもなくましてや「絆が弱い」わけでもなかったのだろうと思います。
相手の様子を見て必要最小限の言葉で伝えること、余計なことをしゃべってもあまり意味はないというあたりだったのではないかと。


今でも、人と直接会話する時には、かなり頭の中で言葉や相手の反応を先に考えてしまいます。
頭の中で文章を考えて、おぼつかない口調でしゃべるあの英会話のような感じです。


だから話し言葉はなんとなくたどたどしくなってしまい、ちょっとしゃべるのは苦手です。


小学生ぐらいの少女が、まるで大人かテレビタレントのようにペラペラとしゃべっているのをみると、これくらい流暢に日本語が話せる能力があったらと、少しうらやましくもあります。


<立て板に水のような会話がちょっと苦手>


電車や街中で、途切れることなく早いテンポで会話をしている人たちを見ていると、もう別の人種なのではないかと思えて圧倒されてしまいます。
会話に耳をそばだてていると、最近はなんだか1億総コメディアンかのように会話がボケとツッコミで成り立っているのではないかと思えるほど、皆よくしゃべりよく笑っています。


正直、私には苦痛。
あの、軽く咳払いしただけでもその音が響くほどの静かな朝の通勤電車ぐらいの静寂が好きなので。
ええ、これは好き嫌いの問題なので、良い悪いの話ではありませんが。


このワイワイと多勢の人がしゃべっている環境が苦手なのも、養育環境に影響を受けているのかなと思うこのごろです。


<「立て板に水」のこともある>


おしゃべりが苦手で「横板に雨だれ」な私でも、時に「立て板に水」になることがあります。
母親学級とか、妊娠・出産・育児に関することでお母さんや御家族に説明をするときです。


「Your tongue runs nineteen to the dozen.(十二語で済むことを十九語でまくしたてる)」
「To speak nine words at once.(一度に九語しゃべる)」


ああ、耳が痛い。


だって、「こんな話にだまされちゃいけませんよ」という説明が最近多くて。
というのは言い訳ですけれど。



それにしても、人のおしゃべりが「水」に例えられるようになった発想はどのような感覚の認知からきたのでしょうか。



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