行間を読む 65 <名を残す>

地図と測量の科学館の大きな年表には、私が名前が知っている人物も少し載っていました。
地図関連ですから伊能忠敬とか間宮林蔵とかですが、何にしても私の「歴史の知識」なんて、ちょっと有名な人物の名前を覚えているという程度です。


その大きな年表の中で、虚をつかれるものがありました。

1810  高橋景保「新訂万国全図」
(北方探検の成果を加え、この時点でもっとも正確な世界地図となる)

1810年は日本ではまだ江戸時代ですが、その「新訂万国全図」は江戸時代の地図というイメージではなく、現代の世界地図に近いぐらいのものです。
江戸時代にそれくらい正確な世界地図を作った人がいるのに、なぜその名をほとんど聞いたことがないのだろう。


気になって、家に帰ってからすぐにWikipedia高橋景保を探しました。
江戸時代にあれだけの精密な世界地図を作った人と言うのに、その説明の少なさに驚きましたが、もっと驚いたのはその過酷な人生の終わり方です。

文化11年(1814年)には書物事業兼天文方筆頭に就任したが、文政11年(1828年)のシーボルト事件に関与して10月10日に伝馬町牢屋敷に投獄され、翌文政12年(1829年)2月16日に獄死している。享年45、獄死後、遺体は塩漬けにされて保存され、翌年3月26日に、改めて引き出されて罪状申し渡しの上斬首刑に処せられている。このため、公式記録では死因は斬首という形になっている。


国土地理院のHPにも、「測量・地図ミニ人物伝:高橋景保と渋川景佑」がありました。

景保(かげやす)と景佑(かげすけ)の兄弟は、幕府天文方の高橋至時(よしとき)の子供で、いずれも天文学者となり、父と協力して天文学の研究をしました。


兄の景保は、父の死んだあと天文方となり、幕府との交渉などで忠敬の測量に協力し、さらに日本周辺の地図や世界図なども作りました。


ところが、間宮林蔵シーボルトから届いた手紙を幕府に届けたことによって、景保がシーボルトと親しくしていることがわかりました。景保は、そのころは禁止されていた、外国との地図の交換をしているといううたがいで逮捕され、牢で死亡しました。帰国しようとしていたシーボルトの船から地図などが発見され、長男や次男も島流しになりました。


時代が時代だっただけに、シーボルトと地図の交換をしたことで投獄され、獄中死では済まずに遺体を塩漬けにしてから処刑された。
まさに「地図を強力な道具にさせて、軍事や政治、イデオロギーやプロパガンダなどの目的に利用しようとする人びとによる占有対象となっている」ですね。



コトバンクの「日本大百科前保(ニッポニカ)の解説」の中では、高橋景保がどんな人物であったのか、少し記載がありました。

20歳で父の後をついで天文方となり、間重富(はざましげとみ)の助けを受けて浅草の天文台を統率、優れた才能と学識でその地位を全うした。伊能忠敬が彼の手附手伝(てつきてつだい)を命ぜられると、忠敬の測量事業を監督し、幕府当局と交渉および事務上のことについて力を尽くし、その事業遂行に専心させた。1807年(文化4)万国地図製作の幕命を受け、1810年『改訂万国全図』を刊行した。

翌年には歴局内に藩書和解御用(ばんしょわげごよう)を設けることに成功し、蘭書(らんしょ)の翻訳事業を主宰した。満州語についても学識を有志、『増訂満文輯韻(まんぶんしゅういん)』ほか満州語に関する多くの著述がある。景保は学者でもあったが、むしろ優れた政治的手腕の所有者で、「此(この)人学才は乏しけれども世事に長じて俗吏とよく相接し敏達の人を手に属して公用を弁ぜしが故に此学の大功あるに似たり」と大槻玄幹(おおつきげんかん)(1785−1838)は評している。この政治的手腕がかえって災いしてか、1828年(文政11)シーボルト事件の主犯者として逮捕され、翌年45歳の若さで牢死(ろうし)した。存命なら死罪となるところであった。

「世界大百科辞典」によれば、伊能忠敬は全国図完成前に死去し、その後、高橋景保の監督下で作成されて1821年に完成したとあります。
伊能忠敬の「大日本沿海実測図」は、この高橋景保の存在なくしてはなかったということでしょうか。



「デジタル版日本人名大辞典+Plus」の解説に、高橋景保のオランダ名がありました。
「グロビウス」
もしかして、globalと語源は同じなのでしょうか。
政治に翻弄されない、何かもっと違うものを求めていたのかもしれないと勝手に想像してしまいました。





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