記録のあれこれ  23 <フランス式からドイツ式へ>

先日観に行った「近代測量の幕開け」で、もうひとつ疑問が解けたことがありました。


今年の夏は災害と認識する暑さが続いていたので、冷房が効いたあちこちの郷土資料館を訪ねました。そこまで行くだけでも大汗でしたが。
明治時代から昭和にかけて渋谷に搾乳場があったように、新宿にも搾乳場がいくつかあったそうなので、その資料がないか新宿郷土資料館に出かけました。
たしかその資料館だったと思うのですが、明治時代の新宿の地図の欄外に小さな風景画が描かれたものがありました。
まさに風景を観察し人の手と感覚によって緻密に描かれているボタニカルアートのような風景画です。


それをフランス式と呼ぶことを、今回の企画展で初めて知りました。


「フランス式とドイツ式の地図表現方法」という展示で、「幕末にフランスは、日本に軍事顧問団を派遣し、幕府軍フランス軍政を採用」し、その後、明治新政府の陸軍もフランス式の地図の図法をそのまま引き継いだことが説明されていました。

明治13年(1880)年から作成した第一軍管地方二万分一迅速図原図は、その地図表現技法においてフランス式渲彩(せんさい)図式により作成された。色彩と文字により地形、植性等を表現している美麗・繊細(びれい・せんさい)な測図原図ができあがりました。
地図製作に従事する者として陸軍参謀本部地図課では、明治洋画壇の重鎮で、画塾を開き西洋画の普及に務めていた川上冬崖(かわかみとうがい)や浮世絵、漢画、日本画、水彩画、油絵などの多くの画家を採用しています。


地図の脇に添えられた絵から当時の情景が浮かぶようですし、湖などについては水深を絵で表した図が描かれていることもあります。
まさに、特性を変えずに描くというボタニカルアートに通じますね。



帰宅してから、もう少しこのフランス式地図について知りたいと検索してみたのですが、全くといって見つかりませんでした。
「地図の世界史 大図鑑」には「新フランス地図」という説明があるのですが、主にカッシーニ図法についての説明が主で、脇に水彩画を描くのがいつ頃から始まったのか、どういう基準があるのかなどについては説明がありませんでした。


さて、展示では、高校生の頃に習った世界史の記憶がつながる一文がありました。

明治3年(1870)に普仏戦争プロイセンドイツ統一の中心になった)とフランスの戦争ーが起こり、翌年の1871年にはフランスが負けました。しかし、陸軍のフランス式は継続しました。

やがて、陸軍の将校のドイツ留学(田坂工兵大尉など明治15年帰朝)などもあり、明治16年(1883)測量・地図作成を含む軍政全般は、普仏戦争の結果を斟酌(しんしゃく)して、徳川幕府以来のフランス陸軍式から、戦勝国ドイツ式に変更されました。
地形図も、フランス式渲彩図式により作成されていた彩色原図は、ドイツ式の1色・線号図式に切り換えられました。


歴史にもしはないというけれど、もしフランスが勝っていたら、もしそのままフランス式地図が作られていたら、風景や人々の生活も描かれる立体的な地図が残されていたかもしれませんね。




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