昨日の夕方、道ばたで鈴虫の声が聞こえました。
今年、初めて聞いた鈴虫です。
「ああ、もう秋がくるのだな」とふと感じて帰宅したら、ニュースで「今日は立秋」と告げていました。
「立秋」とは、「初めて秋の気配が現れてくる頃とされる」という意味が本当なのだと改めて感じました。
そういえば、ここ2〜3日の公園のつぶやきにも、秋を感じさせる植物の写真がちらほらとありました。
この二十四節気はいつもあまり気にしてなくて、ニュースや天気予報で「今日は○○」と説明があって初めてそうかと思うぐらいですが、太陽の光や水温といった季節の微妙な変化を適切にとらえていると感じます。
さらに、七十二候という季節の分け方があることを、この歳になって初めて知りました。
きっかけは、東京ズーネットの7月6日のtweetに、暑そうにくちばしを開いたハシビロコウの動画に「七十二候は『温風至る』(あつかぜいたる)」と書かれていたことでした。
今年は、6月下旬からこの7月初旬の「温風至る」の頃に猛暑が続いて夏本番といった気候でしたが、8月に入るととたんに曇りと雨の日が増えて気温が下がり、「いつもの年とは違うのではないか」「異常気象か」と思いたくなります。
ところが、やはり立秋は立秋でした。
自然現象の変化を人の感覚だけで観察し続けるしか手段がなかった時代に、こうした自然現象のその年その年のゆらぎを見極めながら季節が変化する法則を見いだしていったことを思うと、あらためてすごいとこの二十四節季と七十二候の内容を読み直しています。
そして、毎日見ていると変化がわからないようなことも、七十二候の「約5日ずつに分けた期間」ぐらいの長さで定点観測すると、はっきりと変化が見えることもありますね。
父の面会に行く途中の田んぼも、7月下旬にはまだ青々とした葉だけだったのですが、数日後には穂がでてお米の白い花が咲き始めていました。
心無しか、稲の香りも強く感じられました。
こうした季節を表す言葉ひとつをとっても、気が遠くなるような時間をかけて季節が観察されてきたことで、現代の私は多大な恩恵を受けているのだとしみじみ思うことが増えました。
「観察する」まとめはこちら。