パイナップル

最初にパイナップルを食べたのはいつだったのか記憶にないのですが、幼児の頃だと思います。
当時は、生のパイナップルは高級品だったことでしょうから、きっと甘いシロップに漬けた缶詰が、最初のパイナップルとの出会いだったことでしょう。


それから四半世紀過ぎて、東南アジアで暮らすようになった私にとって、バナナエビと同じく、日本と東南アジアとの関係を思い起こさせて、郷愁と心の疼きの両方を感じる果物となったのでした。


90年代頃に住んでいた地域には、広大なパイナップルプランテーションが広がっていました。
真ん中を通っている幹線道路からも、本当に見渡す限り一面のパイナップルです。
そのプランテーションを抜けるまで、車で20〜30分ぐらいはかかったでしょうか。


バナナプランテーションと同様に、安い賃金と不安定な雇用条件、そしてヘリコプターで空中から農薬が散布される中で身を守る物も支給されずに働くことなど、労働組合の方から話を伺った記憶があります。
それは主に日本向けのプランテーションで、生で空輸するためにアメリカの無償援助で国際空港建設が進められていました。


そのプランテーションの広大な土地も国際空港の建設予定地も、現地の友人たちの少数民族が所有していた土地でした。
正確に言えば個人で所有しているのではなく、神から借りている土地です。
「以前は、私たち部族の土地だった」というところを、いくつもいくつも、友人が案内してくれました。
1960年代頃からのこの土地への移民政策のために、いつのまにか友人たちの部族の土地は島外から移り住んだ人たちのものになり、先進国向けのプランテーションがつくられていきました。


そして、当時から続く内戦のために、友人たちは国内難民となったのでした。


プランテーションの真ん中を貫通している道路沿いには、出荷ではねられたパイナップルを売っていて、その場で食べることもできました。
甘酸っぱくて、こんなにおいしいパイナップルを食べたのは初めてと思うぐらいでしたが、パイナップルが育っている土地の歴史を知ったあとは、心を疼かせながら味わうことになりました。


あれからさらに二十数年たって、今ではそのプランテーションから出荷される生のパイナップルがいつでも店頭に並んでいます。
あのアメリカ開発援助庁(USAID)の無償援助でできた国際空港のおかげで、四半世紀前までは生のパイナップルも高級果物だったものが身近な食べ物になりました。


でも、そのUSAIDの計画書に書かれていた「経済のパイが大きくなれば、貧困の格差も少なくなる」という空港建設の便益が実現したのだろうか、と気になっています。
定点観測の責任を感じながらも、治安の問題もあって簡単には訪れることができない地域です。


以前のように多国籍企業のロゴマークを見て憎しみの感情がでるような正義感からは解放されましたが、やはりパイナップルはちょっと心を疼かせる果物なのです。