繁縷

2月の中頃になると、線路沿いの土手や道ばたに急に新緑が目立ち始めてきて、春が近づいたことを感じます。


今年も季節が巡って来て、突然初夏のような暖かさで、いろいろな花が咲き始めました。
木蓮とかコブシ、沈丁花レンギョウエニシダといった花々に目を奪われていると、いつのまにかホトケノザハコベも20cmぐらいになり花を咲かせ始めています。


あまりに一斉に芽吹く時期なので、毎年、今年こそはこの植物の成長を見続けてみようと思っても、なかなか定点観測ができずに過ぎてしまいます。
ハコベもその植物のひとつですが、今年も見逃しました。
この時期の「定点観測」は1週間という単位ではなく、「朝と夕方」「毎日」のレベルの間隔でないと、どんどんと植物は姿を変えていってしまうので、結局、毎年その変化を見逃してしまっています。


まあ、「二兎追うものは一兎も得ず」ですね。


今日もまた呪文のようなタイトルですが、ハコベをこう書くことを初めて知りました。


ハコベは、半世紀ほど前の子どもの頃からなじみのある植物でした。
ひとつは早春の草花として。
もうひとつは、小学校低学年の頃に文鳥を飼っていたことがあって、籠の掃除をしたあとに新しく摘んできたハコベに入れ替えるのが私の仕事でした。


たしか2羽ぐらいいたと思いますが、いつ頃から飼って、いつその鳥が亡くなったのかのあたりは記憶に残っていません。
ただ、文鳥のにおいとそのハコベの緑色が記憶にあるのです。
ハコベがない季節は、何を与えていたのかも記憶がありません。


春の七草」としてのハコベはあまり記憶にありません。
というのも新暦の1月どころか、旧暦の正月である2月中旬はまだ雪が積もる寒冷地でしたから、ハコベを見かけるのは3月に入ってからだったのではないかと思います。
今のように「春の七草セット」のようにお粥用に売られているわけではなかったので、未だに私の中では春の七草とつながらずにいます。


20代に入ってから聖書に関心が出始めてから、新約聖書のある箇所を読むといつもハコベを連想していました。
マタイによる福音書の「思い悩むな」(6章)の以下の部分です。

だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉におさめもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる


たぶん、日本では春先のたくさんの幼鳥が生まれ育つ頃に、ハコベを始めとした植物もまたたくさん育って餌として備えられている、そのような連想で記憶されたのだと思います。
ただ、日本でも野の鳥がハコベを餌にしてついばんでいるところを見たことがないし、新約聖書が作られたイスラエルパレスチナのあたりの野鳥や植物の生活史も多種多様なことでしょう。


最近はハコベを見るとそのあたりも思い起こされて、自分の思考というのはイメージによってなりなっていることを注意喚起してくれる植物になりました。




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