難民についてのあれこれ 9 「なんという空しさ、すべては空しい」

このところまたガザ地区とかイスラエルがニュースから頻繁に聞こえるようになり、40年ほど前の記憶を行ったり来たりしています。

 

1980年代初頭、世界の難民救援に関心を持った頃からパレスチナ問題として耳にしていましたが、ニュースを読んでもその複雑さを理解することはできませんでした。

「1967年の第三次中東戦争イスラエル軍パレスチナ自治区を占領した」(Wikipedia)ぐらいは私の高校時代の世界史の教科書にも書かれていたかもしれませんが、歴史として学ぶこにはまだ近すぎました。

 

遠い中東の国の歴史が少しずつつつながるようになっても、ナチスによる大虐殺の被害者であるユダヤ民族パレスチナに攻撃する状況が理解できずにいました。

 

 

旧約聖書の中のイスラエル

 

そのころに出会った犬養道子さんの旧約聖書物語から、30代に入る頃には旧約聖書と新約聖書を何度も通読するようになり、旧約聖書の中に「立ち帰れ、イスラエル」(エレミヤ書)とか「イスラエル罪と罰」(士師記)といったイスラエルの民を諭すことがここかしこに描かれていることに驚きました。

 

そしてイスラエルの民とは難民でもあったのだとつながり、なぜ欧米に難民救援団体ができたのか、それは第二次世界大戦後というよりも旧約聖書の時代にもすでにその発想があったのではないかと漠然と理解したのでした。

 

その後、旧約聖書とはユダヤ教およびキリスト教の正典であり610年に始まったイスラム教もまたこの旧約聖書を読んでいることを、1990年代にイスラム教の地域に住んで知りました。

宗教でいがみ合っているイメージだったのに、元を辿るとつながり合っていることが意外でした。

 

そして現代のユダヤの人は、旧約聖書のその箇所をどんな想いで読むのでしょうか。

 

 

*「コヘレトの言葉」*

 

今日のタイトルは「コヘレトの言葉」にあります。

 

エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。

 

コヘレトは言う。

なんという空しさ。

なんという空しさ、すべては空しい。

 

こんな始まりの「コヘレトの言葉」ですが、30代ごろに読んだ時には意気揚々としていた時代でもあったので、虚無主義のように読める内容には抵抗がありました。

 

 

最近はちょっと遠ざかっていた旧約聖書ですが、パラパラとめくってみました。

 貧しい人が虐げられていることや、不正な裁き。正義の欠如などがこの国にあるのを見ても、驚くな。

なぜなら

 身分の高い者が、身分の高い者をかばい

 更に身分の高い者が両者をかばうのだから。

 何にもまして国にとって益となるのは

 王が耕地を大切にすること。

 

 銀を愛する者は銀に飽くことなく

 富を愛する者は収益に満足しない。

 これまた空しいことだ。

 財産が増せば、それを食らう者も増す。

 持ち主は眺めているばかりで、何の得もない。

 働く者の眠りは快(こころよ)い

   満腹していても、飢えていても。

 金持ちは食べ飽きていて眠れない。

 

現代の日本かと思ってしまいますね。

 

ああ、なんだか最近むなしいのはこの時代の雰囲気だけでなく、紀元前からずっとずっと現代まで繰り返されてきたこと、言い換えれば人間の失敗に対してだったのかもしれませんね。

 

難民というのは、こうした人間社会の失敗が正典の中に書かれていてもその失敗は自分のことではないという頑なさが強くなった状況によって生み出され続けるのかもしれない。

そんなことを久しぶりに読んだ旧約聖書から考えたのでした。

 

心の平安はいつ来るのでしょうか。

 

 

 

 

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