イメージのあれこれ 6 <自分を認識する>

東南アジアで暮らし始めた1980年代に、日本の製品は良かったと懐かしく思うものに鏡がありました。
ホテルなどには普通に品質の良い鏡があるのですが、街中で売っている鏡がなんとなく歪んで見えたり、しばらく使っていると落ちない曇りが出始めるのでした。


さらに辺境の村に行くと、家に鏡すらないことがほとんどでした。
おそらく小さな手鏡ぐらいはあったのでしょうが、日本の家にあるような鏡台とか洗面所の鏡がないのです。
鏡があったとしても、家の中はランプの生活で薄暗いので、あまり役にたたないのかもしれません。


都市部の女性、特に年頃の女性は小さな手鏡をポケットやバックに入れて、時々見て自分の化粧や髪型を気にするのは万国共通なのですが、少し離れた村に行くとほとんど鏡を見ない生活のようにみえました。



川で沐浴をする時に、ナルシストという言葉とともに知っていた「水に映った自分の姿を確認する方法」を試してみましたが、実際にはほとんど映りません。


どうやって自分の顔や姿を見るのだろう、見なくても気にならないのだろうかと疑問に思ったのですが、確認することもないままになってしまいました。





<自分の顔や姿を確認したいという願望がかなった>


日本で、当たり前のように家に鏡があるようになったのはいつ頃からだったのでしょうか。
半世紀ちょっと前の私の幼児の頃からの記憶でも、まだ汲み取り式トイレだったり内風呂がなくて銭湯通いが多かった時代でしたが、時計が必ずどの家にもあったように鏡もありました。



Wikipediaを読むと、現在のような鏡の技術が開発されたのは1835年のようですが、日本で庶民が鏡を持つようになったのは明治・大正・昭和のどのあたりなのでしょうか。


高校生の頃、日本史の教科書に青銅鏡の写真がありましたが、こんな物で自分の顔なんて見えないのにどうしていたのだろうと不思議に思っていましたが、Wikipediaの説明で納得しました。

鏡に映像が「映る」という現象は、古来極めて神秘的なものとして捉えられた。そのため、単なる化粧用具としてよりも先に、祭祀の道具としての性格をおびていた。鏡の面が、単に光線を反射する平面ではなく、世界の「こちら側」と「あちら側」を分けるレンズのようなものと捉えられ、鏡の向こうにもう一つの世界がある、という概念は通文化的に存在し、世界各地で見られる。


現代のように、はっきりと自分の姿を見ることよりも、「何かが映っている」ということが大事だったのでしょうか。



<「自分」を認識する>


Wikipediaの「鏡と人間、動物の認識」に、「鏡の起源は人類と同じほど古い」「鏡に映る姿が自己であることを知るのは、自己認識の第一歩であるとされる」「鏡によって、初めて人は自分自身を客観的に見る手段を得た」と書かれています。


確かに鏡の歴史は古いのかもしれませんが、多くの人が自分の顔や姿を自分で見ることができるようになったのはたかだか200年にも満たないのかもしれませんね。


そして、広い世界には、鏡で自分の姿を見ることに必要性をあまり感じない、そんな暮らし方の人たちもいることでしょう。


あちこちに鏡があり、ショーウインドウにもはっきりと姿が映り、大昔の人たちの「自分の姿を見てみたい」という手段が叶ったのですが、反面、常に自分を認識させられる状況は何か社会を変えた部分もあるのだろうと気になっています。



<おまけ>


Wikipedia「鏡」に「鏡と食事に関する研究」の記載があって、「孤食も鏡をみればおいしさアップ」で紹介した研究について書かれていました。
私は「シュール」と感じたのですが、こんな感覚の差もまた鏡の広がりと関係があるのかもしれませんね。



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