イメージのあれこれ 7 <写った自分を見る>

私のアルバムは生まれた直後の写真が1枚もなく、おおきなたらいの中で沐浴をしている姿が最初の写真であることをこちらの記事に書きました。



大正終わりから昭和初期に生まれた、私の両親の子どもの頃の写真はもっと少なくて、乳児の頃の写真が少しと、それ以降も行事でかしこまったような写真があったぐらいだったと思います。


物心ついた時には、家にはカメラがありましたから、私たち世代ぐらいは家庭で普通に写真を撮るようになった時代だったのだと思います。
それでもフィルムや現像代は高かったからでしょうか、記念写真的なものがほとんどです。


その後は小学生ぐらいまでは写真がそれなりにあって、また中学生、高校生としだいに少なくなっています。そして20歳になった頃、写真に映っている自分の現実に気づき、それ以降はほとんど自分の写真はありません。



1980年代には家庭用のビデオカメラも出始めて、写真だけでなく録画も残すような時代になりました。
1980年代終わりごろに助産師になった頃は、まだビデオで出産や出生直後の赤ちゃんを撮影する人はたまにいる程度でしたが、今では誰もがスマホでもビデオでも簡単に撮っています。
そして子どもの成長の記録が、写真から動画へと変化し始めた時代でもありました。
さらに最近では、胎児時代までもエコー画像を動画で録画できるようになりました。


写真を撮られることが苦手でぷいっと横を向いた写真ばかりだった私と違って、ビデオカメラも気にしないで自然体で映っている子どもや大人の動画を見ると、違う惑星にいるかのような落ち着かない気持ちになります。
ちょっと、おおげさですけれど。


撮られている自分を意識しつつ、動作や表情がギクシャクしない。
それは本当に「自然体」だからなのか、それとも計算されているのか。


鮮明に映す鏡が広がったことで、それまでは似顔絵ぐらいでしか自分の姿を確認する手段がなかったのに、日常的に自分の姿を意識するようになり、さらにカメラやビデオの広がりで過去から現在の自分の姿が記録されていつでも見ることができるようになりました。



「自分の姿を見たい」だったものが、「自分の姿や人生を記録したい」という願望まで叶う時代になりました。
でも私は写真を見るだけでも気恥ずかしい気分になるので、アルバムも30年ぐらい開いていないのですが、動画で自分の行動までが記録されているとなると、たとえカメラを意識していない幼児時代のものでも穴があったら入りたいくらいの気分になります。



「写った自分」を手軽に見たり記録することができることで、人の意識も何かが大きく変化したのかもしれないとふと思ったのですが、どうでしょうか。



「イメージのあれこれ」まとめはこちら