イメージのあれこれ 2 <「自然」とは>

1980年代半ば、20代だった時に働いていた東南アジアの難民キャンプがあった島は、観光客が訪れることもあったけれど、まだ当時は秘境としてでした。
その島の観光スポットとは反対側の地域は、外国人がまだほとんど入ることがない理由のひとつに、反政府ゲリラへの掃討作戦が時々行われているという事情もありました。


その治安の悪い地域の海辺にコテージがあって宿泊できるらしいと、地元の人から聞き、休暇ででかけました。


バスで2時間ぐらいだったでしょうか。
そのコテージに到着しました。
あいにく、雨が続いてしまったことも理由ですが、2泊3日をほとんどそのコテージから出ることもなく過ごした日の記憶が鮮明にあります。
敗北感に近いような感情とともに。


なぜ、鮮明に記憶に残っているのか。
なぜ、敗北感のような気持ちだったのか。


それは、私はその小旅行に、自分の「女性性」に対する挑戦のような気持ちがあったのでした。


<女性一人ではどこにも行けない>


その小旅行は、一人で出かけました。
私は当時から一人で過ごすことが好きだったので、一人で海をぼーっと眺めたり、会話が数日間ぐらいなくても平気なほうでした。


ただ、やはり治安がよくない地域へ一人で乗り込んで行くのは緊張感がありました。
無事にコテージに着いてからは、持って来た本をひたすら読み、食事以外は部屋にこもることになりました。
日中でも、厳重に鍵をかけて。


コテージがある海辺は、ほとんど地元の人の姿も見かけないところでした。
暴漢への恐怖心が、出発前の予想を越えて強くなったのでした。


3日目の朝、今までに感じたほどのない疲労感とともに、そのコテージを後にしました。


<日本国内でさえ女性が「自然」のなかへ行くことは難しい>


90年代に入ってからは、地の果てまでいけるような体力をつけてその国の辺境の地をまわったのですが、都市部以外は、絶対に一人で行動することはありませんでした。


必ず、現地の友人とともに行動しましたし、行く予定にしていた地域の治安が悪化すれば、計画を中止しました。
その国の女性たちもまた、日中でさえ、どこかへ行く時にはたいがいが複数で行動していましたし、夜間に外出をすることはありませんでした。


どこへ行くにも、女性というだけで男性に比べて行動範囲が狭められることに、私は20代の頃から無意識のうちにも葛藤し、もがいているのではないかと思っています。


最近は川沿いや海辺にふらりと散歩に出かけていますが、都内でさえ緊張する場面がたくさんあります。
「人工的」な葛西臨海公園でさえ、人気が少ない道を歩いていた時に、後ろから挙動不振な男性に追われたことがあります。


都内の川沿いを歩いていても、男性が一人で釣りを楽しんだりしているのに比べ、女性が一人でボッーとする姿はほとんどありません。
日中の明るい時間帯でさえ、人気のないところに近づくことも警戒感がありますが、魑魅魍魎の出る夜ならなおさらです。


「この川の上流を川沿いにずっと歩いてみたい」と思って地図を眺めているのですが、航空写真で見ると、全く人気がなさそうなので二の足を踏むこともしばしばです。


冒険家にまではなろうとは思わないのですが、知人の男性たちが自分の仕事や趣味のために、山へ海へ川へと一人で自由に出かけている様子に、女性にとっては自然を楽しむ以前の障害物があることを意識させられるのです。


そして私が「自然」と認識している事象は、なかなか実際に自分で確認することができないイメージにすぎないのだということを。




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