実験のようなもの 5 <仕事場に子どもを連れて行くこと>

例の熊本市議会に子どもを連れて行かれた議員さんの行動から、まだいろいろと考えているのですが、もしかしたら、あの議員さんやその行動に共感をされている方は日本にはそういう行動をとった人たちがいたことを知らないか身近にいなかったのではないかと、ふと思いました。
あくまでも推測の話ですけれど。


だから、「子育ての大変さを理解せずにあの議員さんを批判する冷たい日本の社会」という仮想敵のようなものができてしまったのではないかと。
仮想敵という言葉は穏やかではないので、まあ社会に対するイメージでしょうか。


私が看護職になった80年代初頭からの「働きながら子どもをどうするか」の記憶をたどっていくと、私も含めて周囲には「どうしようも無いので子どもを連れて来て対応しよう」という状況がけっこうありました。
比較的大きな総合病院でも、です。
保育や保育所の問題に関してはその歴史や経緯などの全体像を知る立場ではないので、ここからはあくまでも私の個人的な経験談です。


<融通がきく職場内の保育園もあった>


80年代前半に勤務した国立系の総合病院では、 昨日の記事に書いたように、25才までには結婚して一旦退職するという雰囲気が強かったので、看護職でも20代後半から子育ての手が離れた40代前後のスタッフがほとんどいない、まさに就業人口のM字の曲線そのものでした。


80年代後半になって勤務した民間の総合病院では、いまだに少ない24時間対応の院内保育所があって驚きました。
その病院では真夜中の夜勤の交替がなく、21から22時で帰宅できるように変則三交代を取り入れていました.
痴漢に合わないような通勤の安全という点よりも、「子どもにと一緒に夕食を食べて寝つかせてから出勤できる」「夜勤中に子どもの世話をする家族がいない場合には保育所に預け、真夜中の交替がないので子どもの睡眠を妨げることがなく、朝一緒に帰宅できる」という子どもの視点にたって、夜勤の時間まで変えていたことがとても印象に残りました。


「熱を出した」と院内保育園から病棟に連絡があると、「ちょっとごめん、見てくる」と病棟を離れることもありましたが、「病気だと子どもも心細いからいいよ」という雰囲気でした。
院内なので、当時は聞いたこともない「病児保育」も兼ねていて、少しの熱なら保育士さんたちが対応してくれて、お母さんは仕事に戻ってくることができました。


もちろん、病院側のもっとも大きな目的は看護師の雇用確保ですけれど。
看護職なら昔から保育園を利用して、仕事と子育てを両立させていた人が多いイメージですが、当時の雇用形態は「日勤も夜勤もできる常勤」という選択しかない病院がほとんどだったのではないかと思います。
「日勤しかできません」という人は、再就職の機会が限られていました。


その後、夜勤パートなど働き方の選択肢が増えたのが90年代半ば頃でしょうか。
24時間対応の院内保育所がその後、予想したよりは広がらなかった背景には、多様な雇用形態が広がったことがあるのかもしれません。


<子どもを預けられない時の社会的実験があった>


90年代に入ると、正確な統計はわからないのですが、私の勤務先にも女性医師が急増しました。
特に、産科、小児科そして麻酔科の先生方の中に子育てをしながら仕事を続ける方が「出現」しました。
80年代には、ほんとうにごくごくわずかの女性医師にしか出会ったことがなかったので、「出現」という感覚なのです。


特に90年代前半だと、「医師なら経済的にも恵まれているでしょうから、家族でなんとかしてください」と保育園に預けることも厳しい話を聞いたことがあります。
祖父母などに頼んで出勤していたようです。
そういう先生たちが、病院に子どもを連れて出勤せざるえないことが時々ありました。
緊急の帝王切開や手術に呼び出されたとか、小児の点滴漏れで夜間や休日に入れ直さなければいけないとか、同僚の先生の都合がつかずにどうしても出勤しなければいけない休日などです。
医局に連れて行って世話をし、病棟に呼ばれると、私たちスタッフが子どもをあやしながら先生が仕事に専念できるように対応していました。


次に、小規模な産科診療所に移ったのですが、そこではさらに総合病院時代よりは柔軟に対応できました。
授乳中の看護スタッフが復職するとクリニックの近所の方が預かってくれて、赤ちゃんが泣き出すと連絡をくれるので、お母さんは職場を離れ授乳をして戻ってきました。
分娩介助中の助産師でも、「いいから行って来て」と途中交替をして授乳に行ってもらったこともありました。


そうやって保育園に入れるまでの期間をつないでいました。


<なぜ実験的なのか>


私たちも自分の業務以上の仕事が増えるのですが、皆で協力し合って乗り切ったという気持ちと、子どもにも癒されるところがあったので、嫌だとか面倒という気持ちは不思議とありませんでした。


それは「育児中の人たちに寛大」というよりも、まだ、求めるような理想的な制度が社会に無い中で現状を打破するための方法を見いだそう、なんとか一緒に働く人が仕事を続けられるような方法がないかと試行錯誤していたからだと思います。


「私たちはこんな風に柔軟に対応している」と多少の自負があっても、あえて声を大にして社会に広げようとしなかったのは、やはりこの方法にもメリットだけでなくデメリットがあるだろうというところが感覚的にあったからだと思います。
親の仕事はなんとか続けられても、子どもには負担な方法だろうというあたりです。
そう、まだ実験的でしかない方法なのだと。


そして、広い世の中には、やはり同じように試行錯誤している人たちが絶対にいて、いつかは何か違う形で世の中が変化していくだろうという、社会への信頼感もあったのかもしれません。
小さなうねりが、静かに静かに広がって大きなものになっていく。
それが、社会的実験の段階を経て、普遍的なケアや制度へと近づいて行った時とも言えるかもしれません。


今回の件はとても気になっているのですが、それがなぜなのか少しずつ自分の感情が整理されてきました。
ということで、もう少し続きます。



「実験のようなもの」のまとめはこちら
また、今回の「子連れ」の話題は、こちらにまとめることにしました。