三沢川に沿って歩いていると、地図には描かれていなかったのですが「三沢川分水路」がありました。
左岸側は稲城中央公園がある高台、右岸側は駒沢女子大学・短期大学がある高台に挟まれた部分の左岸側にありました。
おそらく上流から増水した水がこの辺りで溢れてしまいやすかったのだろう、と想像できる場所でした。
もう少し上流を歩くと、突如として遊歩道がなくなる手前辺りには昨年秋の台風や低気圧が理由なのか遊歩道の復旧工事中の場所もありましたし、上谷戸川との合流点から少し下流ではちょっとした渓谷のような場所もあり、案外と激しい川だったのかもしれません。
「三沢川分水路」の歴史を知りたいなと検索したら、すぐに見つかりました。
平成27年(2015年)4月に東京都と神奈川県から出された「多摩川水系 三沢川 河川整備計画」が公開されていました。
三沢川分水路は、三沢川流域の治水対策の一環として、多摩ニュータウン稲城地区の開発に伴い雨水排水のために建設されたトンネル河川であり、三沢川中流部(東橋上流)で本川から分流し、途中2箇所で雨水幹線を併せ、JR武蔵野貨物線と並進して、JR南武線多摩川鉄橋の上流側で 多摩川に注ぎ込む延長約2.7kmの一級河川である。
ああ、残念。ぼーっと多摩川を見ながら南武線で鉄橋を超えたのですが、その近くにこの排水口があったのですね。
三沢川の本流は二ヶ領用水の上河原堰の下流に注ぎ込んでいるようです。
その資料の図を見ると、分水路は本流よりも多摩川の上流側へ水を流すように造られています。
どうやって、その場所を決めたのか。放水する場所にもその下流にも、二次災害を引き起こさないように、どうやって水量を計算し、東京アメッシュが開発されていても、どうやってその雨の予測をするのだろう。
山の中を2.7kmものトンネルが通っているなんて、見た目からは想像がつかない場所でした。
*三沢川の「歴史と由来」*
資料に三沢川の「歴史と由来」が書かれています。
三沢川の名前の由来として、「川崎市黒川地区で三つの沢水を集めて流れるところからつけられた川名」という説がある。三沢川は、かつては水田や果樹園への灌漑用水や水車の利用が主であった。坂浜・百(もも)村 地区の水田には直接水が引き込まれ、また本郷用水・幸方(こうかた)用水に分水して、東長沼・矢口地区の南部でも灌漑に利用されてきた。水車は、田に水を汲み入れるほか、水の流れを利用して米や麦を精米したり、麦を挽いて小麦粉にするなど農家にとって重要な動力であった。
図1-7に大正10年頃の三沢川周辺の地形図を示す。北側の多摩川には広い河原と、数多くの川筋が形成されており、傾斜地の畑と雑木林に囲まれて、炭焼きや養蚕などを営む農家が点在していた。
また、都県境より下流区域は、以前は二ヶ領用水へ流入する流路であったが、昭和18年に治水対策のために現在の流路に付け替えが行われて以降は、三沢川は多摩川へ直接流入するようになった。なお、旧川は用水路として残存しており、「旧三沢川」と呼ばれている。
なんと、現在の多摩川への合流地点も「付け替え」によるものなのですね。
「主な水害」もまとめられています。
三沢川流域は、過去に昭和33年9月の狩野川台風(台風第22号)、昭和41年6月の台風第4号の際などに被害があった。
三沢川流域のうち、東京都管理地区間において昭和49年以降に5棟以上の被害があった水害の状況を表2-1に示す。昭和49年以降で溢水が生じたのは、昭和49年6月、昭和51年9月、平成元年8月の3回であり、それ以外は全て内水被害となっている。
なお、神奈川県管理区間では、昭和51年9月の水害について家屋浸水等の一般資産被害や、河川護岸の損傷などの公共土木被害の報告がなされている。護岸の損傷が報告されている箇所は新三沢橋〜菅堰までの区間であり、浸水被害もこの周辺であったと推測できる。以降、平成5年までの間に東京都境までの護岸回収を終えており、近年では河川からの溢水による水害の記録はない。
こうした護岸工事とともに、昭和59年(1984)3月に三沢川分水路ができたようです。
三沢川流域の市街地率は昭和30年(1955)はわずか9%であったものが、 特に左岸川の高台を中心に昭和49年(1974)には16%、平成19年(2007)には39%と急激に拡大して人口の増加も著しいようです。
そこに水道を供給し、生活排水や雨水を安全に処理し、人が安全に住めるようにしてきた半世紀なのですね。
そして、半世紀前といえば公害で人の被害も大きい時代でしたが、そこから環境という言葉が広がる時代になりました。
この河川整備計画の「基本理念」にもこう書かれています。
三沢川は、市街地を流れる都市河川の一画と、良好な自然環境を残している上流域の自然河川の一面を併せ持っている。そのため、今後河川計画を実施する区間の河道整備や維持管理については、治水上の安全性を確保した上で、生態系や親水性、景観にも配慮した川づくりを行うこととし、「地域の暮らしと景観を守り、うるおいと安らぎを与える水辺空間の創造」を計画の基本理念とする。
ヒトを守るだけではないよというあたり、半世紀前には考えられなかったことが書かれるようになったのかもしれません。
足りない部分もあるかもしれませんが、私にはいい時代になったと思えることが増えました。
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