散歩をする 53 <二ヶ領用水>

二ヶ領用水の名前は、玉川上水に関心を持った30年ほど前に目にした記憶があるのですが、そのままになっていました。


丸子川を歩いたことで、久しぶりに六郷用水とともにその名前を思い出し、さっそく地図を広げたのでした。
武蔵小杉から歩き始めて、府中街道沿いに等々力緑地を確認して二ヶ領用水に沿って歩いてみようと、その日の散歩コースが決まりました。



多摩川の支流や分岐した用水・上水を少しずつ歩き始めているのですが、今までは全て都内側でした。
今回は初めて川崎側を歩くので、どんな違いがあるのだろうという点も楽しみです。


20年ほど前の記憶では、まだ武蔵小杉は南武線との乗り換え駅であることと、周辺に工場がある地域ぐらいのイメージでした。
あと、いつ頃だったか「アド街ック天国」で紹介されていた駅周辺の飲み屋さんが美味しそうで、庶民的だった記憶があります。
久しぶりに降りてみると、高層マンション群が立ち並ぶ別世界です。


幻の居酒屋を惜しみつつ、府中街道沿いを歩き始めました。
そのあたりになると、街道を中心に栄えていた街の面影がちょっと残っているようでホッとするのは年代のせいでしょうか。


しばらく歩くと、本当に「等々力」の地名がありました。
面白いのは、対岸は等々力渓谷とあるように国分寺崖線からの急な坂道が多い地域ですが、川崎側はほとんど平面です。
「これが川がつくり出す地形なのか」と、小学生の社会科見学のような散歩ですね。


<二ヶ領用水と六郷用水>


しばらくすると二ヶ領用水が見えて来て、その後は多少の蛇行部分はあるけれど、比較的まっすぐな用水に沿って歩くだけです。
都内の神田川のような少し深いコンクリートの三面張りの流れをイメージしていたのですが、それほど深くもありませんでした。


また国分寺崖線の側を通る六郷用水は、崖から湧きでる水があちこちから流入しているのに対し、二ヶ領用水は、周囲との高低差もほとんどなく、また上流からの勾配差も少ない流れの印象でした。


多摩川をはさんだこの二つの用水にはどんな歴史があったのでしょうか。
散歩から戻って改めて「武蔵野・江戸を潤した多摩川」を読み直すと、その歴史が随所に書かれていました。

 江戸幕府は発足早々(1609年)六郷用水を作り、この羽田地域の水田を開発した(22ページ「六郷用水ー用水のルートに込められた謎」参照)。河口付近の水は塩分を含んでいるので、水田灌漑や飲料にも適さず、井戸水も潮の影響を受ける。このため、生活水を含めた用水は潮汐の影響のない、河口約25キロ上流の狛江(和泉水神前)からの六郷用水に頼っていた。(p.8)


羽田付近に明治初期まで水田があったなんて想像がつかなかったのですが、17世紀初頭にその用水開発が行われたというこの数行を読むだけでも、昔の人のすごさを感じます。


二ヶ領用水についてのWikipediaの説明では、「関ヶ原の闘いの3年前に測量が始まり、14年の歳月をかけて完成」とありますから、江戸幕府が開かれる前から準備が始まっていたことにも驚きです。


「武蔵野・江戸を潤した多摩川」では、二ヶ領用水について以下のように書かれています。

 この用水は玉川上水(1654年)よりも40年以上前に建設されていて、稲毛、川崎の二ヶ領にある水田2000町歩を潤し、川崎を中心とする相模平野の開発に役立った。(p.18)


この二つの用水が江戸を支えて来たのか、と少し歴史がつながりました。


二ヶ領用水も一部は暗渠化されていたり、途切れているのですが、歴史を残そうという動きによって保存されてきた経緯が「川崎市と二ヶ領用水のかかわり」に書かれています。


歩いていると、遊歩道や植え込みなどがよく整備されていました。
ただ、用水沿いに設置されたベンチのほとんどに空き缶で作られた灰皿が置かれていたことと、用水の柵にゴミ捨て場が設置されているために、風でゴミが飛ばされて用水に入ってしまう場所があったのが残念でした。


住民の方達の利便性と歴史と環境の保存の折り合いをつけることは、なかなか難しいのかもしれませんね。




「散歩をする」まとめはこちら