神田川の下流部分を歩いたあと地図を眺めていたら、江戸川橋付近から小石川後楽園方面へとくねくねと蛇行した道が弧を描くように続いているのが目に入りました。
しかも、「水道町」とか「水道端図書館」といった地名があります。
これは、神田川から分岐した神田上水の跡に違いないとピンときました。
神田川がどこをどのように流れているか思い描けなかったもうひとつの理由に、神田川とこの神田上水の違いに混乱していたこともあるのではないかと思っています。
Wikipediaの説明に「神田上水は井の頭池を発する上水である」と書かれているように、「神田川=神田上水」のニュアンスで書かれていることがあるので、それが混乱のひとつです。
検索してみると、神田上水だけでなく江戸の六上水はまだまだ諸説ありという感じのようです。
地図で見つけた江戸川橋から小石川植物園までの部分は、「ブリタニカ国際大百科辞典」の説明がぴったりくるかもしれません。
徳川家康が江戸開府時飲用水を惹くために開削した上水道。日本最古の上水で、天正18(1590)年に大久保忠行によって開設された。井の頭池、善福寺池、妙正寺池の湧水を水源とする神田川水系の水を大洗堰(文京区関口)によりせき止め、素掘りで小石川後楽園を経てお茶の水掘の上を木樋で渡し、神田、日本橋方面へ供給、承応3(1654)年に玉川上水が完成するまで江戸の水道の主役であった。1898年淀橋浄水場開設に伴い、1901年一般への給水を停止した。
この部分に違いない、と地図で偶然見つけたことにちょっと興奮したのでした。
そしてもうひとつ、その不自然な蛇行する道を見て、片側が山になったハケの下側に違いないと確信したのでした。
以前、小石川後楽園に行った時には平地だったような気がするのですが、後楽園から春日のあたりは急な坂道があります。
俄然、あのあたりの地形をこの目で見て歩いてみたいと、12月の半ばに出かけました。
江戸川橋駅から歩き始め、神田川を渡って右手に歩き始めただけでわかりました。
まさに「ハケの下」に沿って、現在の道が続いています。
そして左手はハケの上になり、交差する道はすべて急な上り坂になっています。
右手には神田川が時々見え隠れするのですが、神田川の方が一段低くなっています。
おそらく、ハケの下には湧水や小さな川があり、その水も集めて神田上水が江戸へと向かうように作られたのだろうと想像できる地形でした。
30分ほど歩くと、急な安藤坂にぶつかり、そこから後楽園へ向かう道の片側は切り立つような崖になっています。
半世紀ほど前の幼児の頃から時々乗っていた丸ノ内線ですが、後楽園あたりでなぜ「地下鉄」ではなくなるのかという疑問が解けたのでした。
今はビルや道路などで元の地形がわかりにくいのですが、江戸時代には数十キロも離れた場所から無駄のないように水を得るために、地形を観察し、人力で掘削していったことにあらためてすごいと実感した散歩でした。
江戸を潤した神田上水も、明治時代のコレラの大流行によって、「文明開化の水」と呼ばれた淀橋浄水場の開設とともに役目を終え、こうして道路として利用されているようです。