6月の散歩の記録どころか、まだ記録が終わっていない5月の散歩のメモも出てきました。
津軽平野の農地の歴史に圧倒されたその帰路で、明治用水頭首工漏水のニュースを知りました。
祈るしかないのですが、なんだか気持ちが落ち着かない中、そうだ今の水への関心や散歩の原点だった玉川上水を訪ねようと思いついて出かけた日の記録です。
最初に玉川上水を知ったのは1980年代後半、清流復活事業で整備されて間もない頃で、まるで「森の中を流れるような小川」が都内にあることに驚いたのでした。江戸へ水を運び途中の武蔵野の大地を潤すという江戸時代に造られた水路が保存されていることを知り、少しずつそばを歩くようになりました。
2017年ごろには、現在の暗渠部分を含めてほぼ全域を歩いたのですが、いつも「次の機会に」と見送ってきたのが羽村市郷土博物館でした。
そうだ、博物館を訪ねてそのあと羽村堰を眺めよう。
五月晴れの日に出かけました。
*お寺坂*
JR羽村駅から多摩川に向かって歩くと、都道29号を渡った先からは川へ向かって急な下り坂になります。
その途中に「馬の水飲み場跡」があって、いつも素通りしていましたが今回は説明板も読んでみました。以前からここには説明板があった記憶があるのですが、3年ほど前に新しいものになったようです。
馬の水飲み場とお寺坂
ここは、豊な湧き水を利用した馬の水飲み場があります。坂の下に住む農家の人たちは、畑がハケ(段丘崖・だんきゅうがい)の上にあったので、この坂を登るのに大変苦労し、肥料や農作物の運搬は、荷車を引く馬に頼っていました。このため急な坂を登った途中に水飲み場を作り、馬をいたわりました。
この坂は近くに禅林寺があるので、「お寺坂」と呼ばれ、明治時代の中頃までは荷車がやっと通れるほどの道幅でした。
たしかに初めて羽村堰を訪ねた時、この急な坂に膝がガクガクした覚えがあります。
武蔵野台地のハケの上と下にはなかなか大変な地形に阻まれていた時代もそう遠い時代ではなかったことを思い出しました。
いつもはその急な坂道を道なりに西へと歩いて羽村堰へと行くのですが、今回は禅林寺の前で東へと曲がってみました。
羽村銀行跡
羽村銀行は明治32年(1899)羽東3丁目374番地に創立されたもので、当初は、専務取締役島田六助宅の土蔵を改造した事務所でした。養蚕の発達にともない、製糸家など大口の資金の必要性と共に生まれたもので、一般農家への融資はわずかでした。昭和2年(1927)武陽(ぶよう)銀行羽村支店となり建物も禅林寺門前に新築移転、昭和17年(1942)には日本昼夜銀行羽村支店、翌18年安田銀行羽村支店に変わり、昭和26年(1951)埼玉銀行福生支店と合併し、その後、建物は地域金融の役割を終え、取り壊されました。
小さな説明板からたくさんのことを知るこができる街です。
*多摩川を渡り郷土博物館へ*
蔵が残る住宅地をゆるやかに下ると、玉川上水が見えてきました。昭和44年に造られた玉川上水にかかるコンクリート製の頑丈な橋を渡り、今回初めて、多摩川にかかる歩行者と自転車専用の橋を渡りました。
羽村堰から200~300m下流にかかる橋の下は、川幅10mぐらいの細々とした多摩川の流れでした。
相当量の多摩川の水が人喰い川と呼ばれた玉川上水へ取水され、東村山浄水場を通して都内の水道に使われているようです。
橋の欄干に、「遡上してくるアユや放流アユを守るため、カワウを追い払うことにより、健全な河川生態系の再生を目指します」という「関東広域カワウ一斉追い払い」というポスターがかかっていました。
かつては絶滅の危機にあったカワウですが、難しいですね。
多摩川右岸の堤防の上から青空に映える川面を眺めながら歩きました。どこからかウグイスの鳴き声も聞こえます。日差しは初夏ですが、川風のおかげで涼しく感じました。
住宅地を抜けると、郷土博物館がありました。
玉川上水の詳細な資料が展示されていて、これが一冊の本になっていたら絶対に買って帰ろうと思ったのですがなさそうです。
玉川上水が1654年に完成し、翌1655年には野火止用水ができて、18世紀に入ると武蔵野新田開発が行われたようですが、もし玉川上水が失敗に終わっていたら江戸や武蔵野台地はどうなっていたでしょう。
現代の東京もなかったかもしれませんね。
羽村堰を眺めながら、お昼ご飯のおにぎりを食べました。
こうして好きな時にお米を食べられ、見たい場所をすぐに訪ねられる。
私が生きているのは夢か幻か、なんだかよくわからない気持ちになりました。
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