数字のあれこれ 32 <玉川上水の水量計算>

私が玉川上水に関心を持ち始めたのが30代に入った頃でしたが、こちらの記事で紹介した東京都水道局の「玉川上水の歴史」に書かれているように、1652年に計画が立てられ、1953年に着工して8ヶ月後には羽村取水口から四谷大木戸までの素掘りが完成したという、その早さにまず驚いたのでした。


江戸時代ですから、重機もなく人海戦術であれだけの水路を掘るのは想像ができない世界でした。
しかも、当時の測量技術で、武蔵野台地の尾根伝いに水路を掘削し、高低差が利用されながらいくつかの上水に分水されていったことも驚きです。
途中で、水が吸い込まれてしまう水喰土にあたってしまうアクシデントもあったのに、8ヶ月で完成させたのは本当なのだろうかと、正直なところ今もまだ半信半疑です。


ただ、もしもう少し時間がかかっていたとしても、江戸時代にこれだけの水路を作り上げたことへの敬意は変わることがなく、そのあたりが玉川上水への関心になっています。


<水量も計算されていた>


江戸時代といえば、たとえば医療について考えてみればかろうじて薬草が活用される程度近代医学以前のレベルです。
測量技術に関しても、「地図と測量の科学館」で見た「測量の年表」の中に、「1648年、規距術を創始」「1653〜54年、玉川兄弟の水準測量」とあるように、玉川上水が作られた頃の測量技術も日本に伝わったばかりの頃というイメージです。


ですから、どれくらいの水量が流れているかまで計算されていたわけではなく、とりあえず水路を掘ったのだろうと思っていました。


ところが、「武蔵野・江戸を潤した多摩川」の中にこんな記述を見つけました。


『上水記』によると羽村堰の引き入れ水量は、水積9000坪、そのうち江戸方水掛分4107坪7合3勺、村方水掛分4892坪2合3勺と、細かく決められている。その比率は1対1.2であり、村方が江戸方よりも多い。


「上水記」は、東京都水道局のサイトによれば「寛政3(1791)年に、江戸幕府普請奉行上水方の記録として作られた。玉川上水神田上水の概要、その他の分水についての概略等が記されている」とあります。


「坪」というと「㎥」という面積の昔の単位の意味しか思い浮かばなかったのですが、水量を表すために使われていたこともあったのですね。
その「坪」について、「武蔵野・江戸を潤した多摩川」の中では以下のように説明されていました。

水積1坪の水量とは、1寸四方の四角断面積から流れる堰からの水量と決められている。長方形刃形積の公式でこの水量を計算すれば、毎秒約0.3リットルとなる。ところが、水積4坪を断面とすれば、その流量は1.55リットルになって水積1坪の4倍以上になってしまう。この水積坪は断面積に比例しないのである。このような、理由から、この坪の定義では水量の計算はむずかしい。断面積をどのような形にするか、坪数を増すとき、横に増やすか、縦か、また流速をどのように取るかで、流量計算は大きく変わる。さらに、断面積が同じでも、取水する水深によって、水量は大きく変わるのは言うまでもない。(p.98)


数学も物理も苦手な私からすれば、江戸時代にこれだけの計算をしていたということだけでもすごいと驚くのですが、現代の知識からすれば未熟なものに感じるのは仕方がないのかもしれませんね。


それでも、著者の安富六郎氏は、以下のように玉川上水はやはり綿密に計算されたものであったと書かれています。

このように、正しい算定はできないが、いま、水積1坪流量を単純に9000倍してみると、水量は毎秒2.7トンになる。すると、『上水記』で決められた江戸方坪分(配分量)は約1.23トンとなり、この量はおそらく50万人以上の利用水量になろう。江戸の上水量として、さほどおかしくないかもしれない。だが、これは単なる推測にすぎない。断面形を帰ると、流量は10倍以上に増大することもある。水積坪は本来、田園の取水量の単位であるから、主に、小型の積や灌漑土管のような小水量の単位に用いられ、日常の水量では問題にならなかったと思われる。しかし、このような分配が数量で細かく表示されたことは、この大計画が如何に緻密に進められたかを暗示している。


「水量」という言葉ひとつをとっても、そこには長い歴史と、失敗を克服しながらの知識や技術の蓄積があるということですね。


玉川上水、まだまだいろいろな関心が広がりそうです。



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