今までも何度も青梅線や八高線の車窓から水喰土公園をみているのですが、問題はどこから入れるのだろうということでした。
地図では北側に車道と公園内の歩道が描かれているのですが、玉川上水沿いにある日光橋公園には遊歩道があるのか地図だけではよくわかりません。遊歩道を地図で見誤ると遠回りになったり、計画を変更せざるおえないこともしばしばです。
国道16号線の高架橋の下から日光橋公園になっていて、遊具が整備された公園がありました。しばらくすると南側が土手の雑木林になり、ひっそりとした玉川上水の遊歩道になりました。
すれ違う人もほとんどない、突然森の中に迷いこんだような場所を玉川上水の水面を眺めながら歩いていると、八高線の線路の下をくぐりそこから水喰土公園になりました。
悩むことはなかったですね。
今の玉川上水と同じくらいの高さに森が続いていて、そこから谷底へと降りていく道があります。
その一番下まで降りると「水喰土堀跡」と表示があり、説明板がありました。
市指定史跡 玉川上水開削工事跡
所在地 福生市大字熊川一三五九番地一
指定年月日 平成二年十一月一日
玉川上水開削工事跡は、江戸幕府が承応二年(一六五三)に江戸市民の水の確保を目的として、多摩川より取水し、江戸市中へ配水するために行った開削工事の跡です。
開削工事の跡は、この「みずくらいど」公園に残っていますが、この遺構は工事が失敗し、新しい堀を北側に掘り直したため当初計画した堀跡が残されたものです。
この付近の土地は、古くから「みずくらいど」と呼びならわされてきました。これは、玉川上水開削のおり、この付近で水が地中に吸い込まれ、工事が失敗した土地であるとの故事により発生したといわれます。事実、承応二年以降に作成された古文書や古絵図には「水喰戸」、「水喰ノ上」の文字が現れます。
開削工事の跡は、「みずくらいど公園」の北にある玉川上水五丁橋付近より立川段丘崖線に沿って南へ延び、武蔵野橋公園付近で東へ方向を変え、西武鉄道拝島駅前の玉川上水平和橋の付近まで、約一キロメートルにわたって残存したと伝えられています。しかし、現在は、みずくらいど公園内及び「(*一部写真が読めず)」に開削工事の跡が残るのみです。
この玉川上水開削工事跡は、近世前期の大規模な土木工事の遺構として、歴史的、学術的に大変貴重です。
人力で掘った水路に水を流したところすべて吸い込まれていったとは、悪夢のようですね。
もう一度こちらの「水喰土公園」でリンクした福生市の「玉川上水開削工事跡(みずくらいど)を読み直して愕然としました。
失敗は一度ではなかったことが書かれています。
◯開削の謎
玉川兄弟により作られたとされる玉川上水の開削については謎が多く、詳しいことはわかっていません。それは、開削当時の資料が発見されていないからです。
上水が完成してから149年後の享和三年(1803)、八王子千人同心の小島文平によって書かれた『玉川上水起元井野火止村取分水口之訳書』という書物の中に、興味深いことが書かれていました。これによると玉川上水は2度にわたる工事の失敗のあと、3度目の工事にして上水は完成したというのです。最初は現在の国立市青柳付近から掘りはじめて失敗し、次は福生から掘りはじめて失敗したと記されていました。福生での失敗は、上水に水を流したら熊川村(現在の福生市熊川)で水が残らず地中に吸い込まれてしまったといいます。このことから水喰土「みずくらいど」の名が誕生しました。
そうでした。今年の春に府中用水取水口を訪ねた時に、「1652年頃、青柳から府中までの上水路を計画し、途中まで掘り進んだところ土地の高低差が激しく断念した」と説明板に書かれていました。
その2年後には羽村から多摩川の水を段丘の上にのせることに成功したものの、この水喰土で水がなくなるという失敗に見舞われたようです。
当時の人はどんな思いで二度の失敗を受け止めたのでしょうか。
挫折していたら玉川上水は無かったわけですが、よくぞ失敗の記録が残されていたということにもしんみりとしました。
丸太で造られた階段を昇って、玉川上水と同じ高さの公園へと戻りました。
ぱっと見るだけでは美しい森の中の大きな窪みにしか見えない場所ですが、玉川上水の大切な遺跡であることがわかりました。
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