水の神様を訪ねる 18 小平と氷川神社

今年はなかなか梅雨が明けず、7月下旬も雨が降ったり止んだり蒸し暑い毎日でした。

そんな時期に、天気予報で午後からは雨が降らなさそうな日に、都内をひっそりと散歩することにしました。

 

まだ行っていない氷川神社を地図で見ていたら、「氷川通り」を発見しました。

地図では神社は薄緑色で示されていることが多いのですが、その通りの周辺には神社らしき色はありません。

地図を最大限に拡大して、氷川神社がありました。

そしてその氷川通りに沿って、水色の線が北東へと弧を描くように通っています。

 

玉川上水からの分水に違いないとピンときたのでした。

今年の1月に玉川上水のまだ歩いていなかった区間を歩いたのですが、その近くだったからです。

 

 

国分寺駅から「小平団地行き」のバスに乗り、喜平橋バス停で降りました。

目の前に玉川上水があります。

何度見ても、どの区間も、玉川上水は心が弾みます。

 

玉川上水を越えると団地に沿って、片方の歩道が広い道路に沿って歩きました。

それがおそらく分水された水路が暗渠になっているのだろうと推測した通り、しばらく緩やかな坂道を下ると、そこから氷川通りになり、水路は開渠になりました。

周辺には武蔵野の大きな木や竹やぶが残っています。

 

水路はただ水が流れているだけでなく、稲に似た水草が植えられていて手入れがされているようです。

 

氷川通りに入ったすぐのところに、住宅に囲まれるように氷川神社がありました。

地図に薄緑色で示されていなかったのは、規模が小さいだけでなく、ほんとうに鎮守の森らしき木が一本もない神社でした。

由来を探してみたのですが、見つかりません。

 

そのまま水路の続く氷川通りを歩くと、両側の住宅街にところどころ広い畑が広がっていました。

半世紀前の子どもの頃の武蔵野の風景です。

さらに進むと、新小金井街道の反対側の広い畑へと水路が続き、そこからは私有地なので水路を追うことができませんでした。

地図で見るとここからさらに花小金井方面へと水路があります。玉川上水の水はこの辺りまで潤していたようです。

 

*回田*

 

氷川通りが始まる辺りの地名に「回田」とあり、玉川上水の水で水田を開いたのだろうかと想像しながら歩きましたが、現在はほとんど畑でした。

 

Wikipediaで検索すると回田(めぐりた)と読むようです。

「地名の由来」に江戸時代の新田開発であることが書かれていました。

地名の由来は、新田(当時は畑)の開発の段階で、廻り田村(東村山)に売り渡されたことに由来する。享保9年(1724)小平の「野中新田」という新田開発として町人請負型かつ、広大な開発面積で開発が進められたが、許可された面積513町歩を12人で分けたが開発仲間の中には、開発せずに廻り田村(東村山)などに売り渡し帰村している。享保11年(1726)野中新田の採草地を東村山廻り田村から土地を購入し、廻り田(回田)新田が成立。明治22年(1889)小川新田・鈴木新田・回田新田・野中新田与右衛門組・野中新田善左衛門組・大沼田新田・小川村と久米川の飛び地が合わさり小平村となった。 

 

 

1653年に羽村から四谷まで全長43kmの玉川上水が築かれ、1722年から本格的な武蔵野新田開発が行われて野火止用水千川上水など多くの分水工事が行われましたが、その十数年後には武蔵野新田の大飢饉が起こった。

 

そして「新田」と言っても水田ではなく畑だった。

武蔵野台地と関東ローム層で引用した文とつながりました。

典型的な関東地方の畑作地帯であり、昭和も後半の高度成長期までは、米が2割から3割、それも陸稲米で冷えるとぼろぼろになる麦飯やかて飯を常食とし、水田地帯の人たちから「麦は軽いから、風呂に入ると浮いてしまう」と軽蔑されていた土地柄であったが、今日では武蔵野台地は大消費地を至近に持っている地の利を生かして傷みやすいホウレンソウや小松菜などの葉物野菜の供給地として、またキウイフルーツや花卉などの園芸作物の生産地となっている。 

 

氷川通りのあたりがまさにこうした地域だったのだと、実際に歩いて歴史が少しつながりました。

 

 

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