記憶についてのあれこれ 126 <セピア色の記憶>

私の人生最初の写真はたらいで沐浴をしてもらっているものですが、すっかりセピア色になっています。
当時はまだ白黒写真が一般的で、小学校の入学式の写真も白黒でした。検索すると1970年頃からカラー写真が普及し始めたようです。


最近、このカラー写真で記憶されていた時代もすでにセピア色っぽくなってきたことを感じることが増えてきました。
たとえば、1980年代の最先端の医療機関で働き始めた記憶が、すでにセピア色になっているように。


いえ、私の記憶ではカラーであっても、現在の20代や30代といった世代の人たちにはセピア色に見えるのだろうな、という感覚の差とでもいうのでしょうか。



<「渋谷の記憶」>


さて、渋谷に搾乳場とか、水車とか、想像がつかない風景があったことが気になり出して本を探していたら、渋谷区教育委員会が出版した「渋谷の記憶」という写真集を見つけました。2009年から2011年までに、4巻出版されています。


写真集を開くと左側のページは2000年代前後のカラー写真、右のページは同じ場所付近の明治から昭和40年代ごろまでの白黒写真が載っています。


今はお洒落な街になった代官山の近くの猿楽町には、明治時代は茶畑があって茶摘みをしている写真がありました。
甲州街道の初台や幡ヶ谷の近くにある渋谷区スポーツセンターあたりも大正末期はいくつかの牧場があったそうで、牧舎と牛の写真が載っていました。
また、ほんとうに代々木上原付近の春の小川付近には水田があって、田植えをしている写真も残っています。


1960年(昭和35)年前後の渋谷の街並は、東急東横店と東急文化会館などいくつかのビルがあるくらいで、平屋か2階建ての家やドブ川のような川がある程度で、現在の近代的なビルや道路という風景と比較するとその頃の渋谷区の風景はセピア色に見えても仕方がないほど昔の風景でした。


たしかに幼児の頃に都内に住んでいたわずかな記憶の中でも、時々親に連れられて歩いた池袋や新宿、渋谷といった街はどこも工事をしていて埃っぽく、車やトロリーバスを除けて歩く街でした。
写真をみて、当時はこんな状況だったのかとセピア色の風景がつながってきました。


1970年代になると、テレビで観る渋谷の街はもうすでに現代と同じぐらいビルが建ち並び高速道路が縦横無尽にできていた記憶があるのですが、この写真集を見ると、1970年代初頭と1970年代終わりごろではすでに風景がセピア色とカラーに見えるぐらいの差があったことがわかりました。


そのひとつが、渋谷駅の横を通る首都高速道路3号線の記憶です。
写真集の中では、1970年(昭和45)年にまだ建設中の3号線の写真がありました。
私には国道246号線の上に首都高の高架がない風景は記憶にないぐらい違和感があるのですが、私が小学生の頃にはまだ工事中だったようです。


1970年代後半に看護学校入学のために、再び都内で生活するようになった時には、すでに首都高3号線とその沿線は現在の風景と同じような都会の風景でした。
わずか数年で、同じ場所がセピア色からカラー写真に見えるほど劇的に風景が変わっていった時代を目の当たりにしていたのに、当時は気づかなかったのでした。


そうそうあのSHIBUYA109とか渋谷PARCOが出来たのもこの頃でした。


そのちょっと前の埃っぽい街や道路が思い出せないほど、ずっとカラー写真の近代的な風景の中で生きて来た気分にさせる魔法にでもかかったかのようです。


記憶はあいまいですし、不思議ですね。
これからは写真の保存技術が改良されて、数十年前の写真も鮮やかなカラーのままみることができるようになるのでしょうが、セピア色の写真とかセピア色の記憶という表現も使われなくなるのでしょうか。




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