記憶についてのあれこれ 128 <「街の追憶」>

車窓の風景を見ていると、変化がないように見える不思議な感覚に陥ることを書きました。


そんなことを考えていたら、「1960年代〜90年代 小田急沿線アルバム」(牧野和人氏、アルファベータブックス、2016年6月)という出版されたばかりの写真集を書店で見つけました。
もう、買うしかないと即決。
本の帯には「小田急線沿線の街の追憶」とありました。


小田急線というといくつかの記憶があります。
まず、1960年代後半に向ヶ丘遊園へ遊びに行った時の漠然とした記憶です。
これは、あまり電車や風景の記憶はなくて、ただちょっと長い間電車に揺られてまるでおとぎの国へと行った気分が残っています。


それから、やはり小学生の頃だったでしょうか。どこへ行くために乗ったのかも記憶にないのですが、赤い車体のロマンスカーに乗った記憶です。
これも車窓の風景は記憶になくて、分煙や禁煙の前の時代だったので、車内に煙が立ち込めていたことと、座席にはタバコの吸い殻入れがあった記憶です。


成人した80年代ごろからは、時々利用するようになりましたが、新宿から終点の小田原までの山あり谷あり、住宅街あり森あり田畑あり、そして海岸へと車窓の風景の連続した変化に魅せられていました。
駅を中心に、何年かすると街の風景がふと変化しているのですが、やはりどこがどう変化したのかわからないおもしろさも。


その中でも劇的に変化したのは、世田谷代田から喜多見までの線路の高架化でした。
子どもの頃から見ていた小田急線は、都内もまだ線路が地面にありました。駅舎は平屋建てで、踏切がたくさんありました。
複々線化反対」という幟があちこちにあって、でも時代はどんどん進んで、都市計画道路と同じく、少しずつ用地買収がすんだ土地が増えて、ある時、一気に(と私には見えたのですが)線路が高架化されて新しい駅舎になり、そして付近の踏切がなくなりました。
小田急のホームページを見ると、世田谷代田〜喜多見間の工事が終了したのは2004年だったようです。


最後の砦のような、下北沢の古い駅舎と線路もいつの間にか地下へと移りました。2013年3月だったようです。
「だったようです」と書くぐらい、最近のことなのにもう新しい風景にすっかりと馴染んでいます。


冒頭の写真集には、記憶の中の懐かしい平屋建ての駅舎の写真がありました。


五反田川周辺の急峻な地形に造られた「百合ヶ丘駅」の写真には、「昭和30年代に造成された川崎市内の新興住宅地、百合ヶ丘第一団地の最寄駅として開業した百合ヶ丘。当初より広々した駅前広場の向こうに続く家並みは新たな街の発展を予感させた」と書かれています。
先日、散歩をしていた時に、両側を山に挟まれた細長い地形なのに、駅前はゆったりしていた印象の理由がわかったのでした。


こうした新興住宅地の開発が始まった頃、私は逆に都内から夜になると真っ暗になるところへ引っ越して心細かったので、こうした駅の近くの住宅街を子ども心に羨ましく、ちょっと憧れていた気持ちが、この写真を見て思い出されたのでした。


ところで、小田急線といえば白い車体に青い線が入ったデザインですが、1960年代の写真をみると青と黄色や茶色系の車体が走っていたようです。
私が向ケ丘遊園へ行った時の記憶は白い車体だったのですが、もしかすると後付けの記憶かもしれません。


ぱらぱらと何度も写真集を見ていると、その1枚の写真に写っている小さなことに目がいって、また新たな記憶が呼び覚まされるおもしろさ。
写真には何が写っているのか、不思議ですね。




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