京王線飛田給駅は、府中崖線沿いの散歩などで通過することが増えました。
初めて「飛田給駅」を記憶したのが、1970年代終わりごろだと思います。
当時、世田谷に住んでいて、京王線国領駅に行く機会がありました。一旦、渋谷駅に出て国鉄で新宿駅に行き、そして京王線に乗り換えたのではないかと思うのですが、その辺りは記憶がもうありません。
ただ、当時はまだICカードはもちろんなく自動発券機はあったものの有人改札で、路線を乗り換えるたびに改札を出て切符を購入していましたから、それを考えるだけでもなんだか遠いところへ行ったような記憶です。
そして1970年代終わり頃の京王線沿線の風景はといえば、その名もおしゃれな桜上水駅のあたりをすぎると畑の風景が多くなり、だいぶ郊外に出たのかと勘違いしたのでした。
当時はまだ環八沿いはけっこう畑が残っていたので、この記憶は間違いではないと思います。
*読み方の勘違い*
さて、その京王線の電車内の路線図を眺めていた時に、調布の先に「飛田給」という駅があることが印象に残りました。
当時の私にとって調布といえば、ユーミンの「中央フリーウェイ」に出てくる調布基地で、現在は調布飛行場のある地域という印象だったので、「飛田給」の字面から飛行場や軍事関係が由来した駅名だと思い込んでいました。
その飛田給駅を、すんなりと「とびたきゅうえき」と読めるようになったのはここ最近なのは内緒です。
特に、今年に入ってから都内の長水路プールに行くようになり、ここに都立武蔵野の森総合スポーツプラザが2017年にできたことを初めて知りました。
「飛田給」といえばサッカーの試合が行われる場所ぐらいの認識でしたが、1月に泳ぎに行ってみました。
広大な土地にスポーツ施設があり、ちょっと近未来都市的な雰囲気です。
*駅名の由来*
基地跡がこんな場所になったのかと、改めて飛田給駅を読んでみたら、40年以上も、その駅名の由来も勘違いしていたことを知りました。
駅名の由来
駅所在地にちなむ。荘園制度が盛んな頃、この地は「飛田某(とびたなにがし)」という荘園領主から給された「給田地」であり、「飛田給」と名付けられた。
また別の伝承では、武蔵国の悲田院の給田地であることから、悲田給(ひでんきゅう)という地名になり、それが転じて「飛田給」となり、さらに読み方が現在の「とびたきゅう」となったという説がある。
基地の歴史は関係がなかったようです。
それにしても今でもたまに「とびたきゅう」と間違って記憶した「ひだきゅう」が混乱するのに、「ひでんきゅう」まで加わりそうです。
知識のアップデートは大変ですよね。
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