散歩をする 57 <二ヶ領用水の取水口>

せっかく多摩川川崎側を歩くのなら、水門だけでなく二ヶ領用水の取水口も見に行こうと、その日の散歩コースが決まりました。


登戸駅から水門の建設現場までは歩いて数分ですが、その前に下流側へ遠回りをして宿河原堰に立寄ってみました。
ここから多摩川との水位差を利用して水を引こうと判断した昔の人の観察はすごいと思うほど、歩いていても高低差がわかりにくい場所です。


普通、多摩川に別の水の流れがある場所を見れば、多摩川の方へ合流していく川だと思いますよね。
ところが、玉川上水だけでなく、高低差や水位差を見極めながら多摩川から水を引き込む場所がある。
今までただ漠然としか川を見ていなかったことに、大いに反省したくなることが増えました。


<二ヶ領用水を建設する>


その宿河原堰のそばにはせせらぎ館という資料館があります。
残念ながら立寄ると時間がなくなりそうだったので、今回は通り過ぎました。
そのサイトの「二ヶ領用水って何?」の中に、こんな説明があります。

二ヶ領用水はどのようにして造られた?
今のように機械など全くない江戸時代です。用水掘りは、ひたすら人の力で行われました。クワやスキで土を掘り、モッコに入れて運び、土手などを造りました。このように実際に用水路を掘っていったのは、地域の農民たちでした。二ヶ領用水は、農民の仕事の合間に、こうした作業を10数年も続けた農民たちの苦労のたまものといえます。

番組名は忘れてしまったのですが、録画しておいたNHKのドキュメンタリーの中で、群馬県のある水田地帯は洪水のために「3年に一度しか収穫できないと言われていた米作り」と言われていた時代があったと伝えていました。
水が多くても洪水に苦しみ、足りなければ飢饉や水争いに苦しむことになる。
「仕事の合間」に用水建設に参加するとはどのような想いがあったのだろうと、想像してもその苦しみを本当に理解することはできないほど、私は恵まれた時代に生まれました。


玉川上水建設を指揮した玉川兄弟は有名ですが、この二ヶ領用水や六郷用水を建設した小泉次大夫については最近、名前を覚えました。


せせらぎ館の説明では、「関ヶ原の戦いがあった3年前1597年に測量が始められ、その2年後に開削工事にとりかかり」とあります。
おそらく当時のこのあたりは雑木林などで視界がさえぎられ、どのような地形でどれだけの高低差があるのか見極めるのは難しかったのではないかと想像します。
現代の測量技術に比べてまだまだ未熟な時代に、水を引き入れる場所を定め用水を引く、しかも数百年後にもまだ機能している水流をつくるための知識や技術を小泉次大夫はどのように得たのでしょうか。


もしかしたら、まだ書物としての記録が乏しい時代に、周辺の地形や災害が口述で伝えられて来た話を正確に記憶する能力に優れている人だったのかもしれませんね。


そのせせらぎ館のあたりから多摩川上流にかけて多摩沿線道路沿いにゆったりした歩道が造られています。
多摩川の水面を眺めながら歩くこと約1時間で、もうひとつの上河原堰に着きました。


その手前にももうひとつ水門があるのですが、それは多摩川に合流する川のようです。
その川と多摩川から取水された二ヶ領用水の流れが、地図で見ると川の上に川、川の下に川と交差しています。


もしほんのちょっと計算を誤り、その場所を取水口にする見立てを間違えたなら、多摩川周辺地域を潤す用水にはならなかったことでしょう。


昔から現代への建築の技術に、ただただすごいという感想のお散歩でした。




「散歩をする」まとめはこちら