水のあれこれ 251 土淵堰(どえんぜき)

地図で岩木川沿いの水路をたどっていると、左岸側に岩木川に並行して流れているような水色の線が目に入りました。

大きな川には河岸段丘に沿って支流が並行して流れていることは、これまでも多摩川沿いの散歩などでもありました。それにしても途中で合流することもなく長い水色の線です。

しかも、途中で川の上か下を通ったり、幾つもの水色の線が複雑に交差している場所が描かれています。

 

何川なのだろうと地図を拡大すると、「土淵堰」でした。

読み方もわからず、「土」「淵」「堰」で構成されている水路は何なのか皆目見当がつきません。

たどっていくと、弘前市の中心部から西へ数キロほどの岩木川から取水されているように見えます。

 

複雑な水路を整理して津軽平野の排水を良くしたのは1970年代ですから、その時に造られたものでしょうか。

それにしてはちょっと古風な名称です。

 

検索したところ、なんと津軽藩時代に造られた水路でした。

土淵堰

 

■水田約8,300haに用水を供給する約16kmの開水路。用水の安定供給とともに、腰切り田と呼ばれた排水不良の解消が図られてきた。

津軽藩は維持管理などを担う「土淵堰奉行」という役職を設け、その役割は農民や行政組織、現在は土地改良区へ引き継がれている。

■廻堰大溜池は、堤の長さが日本一を誇る約4,200mの大規模ため池であり、岩木山を映す美しい景観が広がる。

 

(「世界かんがい施設遺産 土淵堰」、西津軽土地改良区のサイトより)

 

 

*「古田放(こでんばなし)と土淵堰(どえんぜき)」*

 

 

地図では岩木川の左岸側に溜池がいくつか描かれているのですが、これが「津軽で生まれる子らに」の中に説明されていた以下の箇所とつながり、全体像が少し見えてきました。

第一に、じゃじゃ馬のような岩木川をねじ伏せるか、あるいは、もうひとつの岩木川とも言うべき巨大な用水を造らねばならない。この水浸しの平野から水を抜く排水路も必要になる。さらに旱魃(かんばつ)に備えて溜め池も築かねばならない。

 

「もうひとつの岩木川とも言える巨大な用水」が、土淵堰のようです。

 

地図で見つけた複雑な水色の線や大きな溜め池の歴史が、「津軽で生まれる子らに」の「第六章 古田放(こでんばなし)と土淵堰(どえんぜき)」にまとめられていました。

江戸時代初期に建設され、350年以上を経た今も津軽平野の大動脈たり続けている、総延長16キロメートルの大用水・土淵堰(どえんぜき)。

この用水の築造や維持管理のため、津軽藩は、土淵堰奉行(ぶぎょう)という地位の高い職制(しょくせい)まで設けている。土淵堰は、この水路一本で実に約4,700ヘクタールと言う広大な水田を潤してきた。

 

また、ほとんど時期を同じくして古田放(こでんばなし)と呼ばれる長大な排水路も御蔵派立(おんくらはだち)によって建設されている。ことに津軽の場合、岩木川中流から下流地帯にかけての開発は、排水路の建設によって進められたといっても過言ではない(この排水路をめぐっても農民同士の複雑かつ深刻な対立を生んでいる)。

 

そして現在は津軽富士見湖と呼ばれ、秀峰岩木山を映す美しい公園に整備されている廻堰大溜池(まわりぜきおおためいけ)。写真で分かるように、この溜め池の半分は半円上の土手でできている。土手の長さは、全国一。約6,500ヘクタールの水田へ用水を補給する屈指の農業用土木遺産と呼ぶべきであろう。

 

こうした藩直営の御蔵派立でも、せいぜい10万石程度の増加しかならない。つまり、それ以上の開発が、村々の民百姓による小知行派立(こちぎょうはだち)によってなされたことになる。

 

水色の線は江戸時代初期に造られ、維持されてきた用水路でした。

 

しかし、津軽平野の開発は、17世紀末、すでに限界に達したらしい。

その後、小規模な開発はあったものの、ほとんどが洪水等による荒廃田(こうはいでん)の復旧、用水路・排水路の修復や改良に費やされた。

 

新田開発は、さらに岩木川の最下流、現在の車力(しゃりき)村、中里(なかさと)町、稲垣村といった十三湖近くの低湿地へも進められていった。

この地域は勾配がほぼ20,000分の1。十三湖の水位によって川が逆流するので馬鹿川と名付けられた川もあったらしい。

 

「馬鹿川」と名付けられる川があるほど現代まで排水の難しさがあったのが、岩木川に沿って十三湖まで長細く続く地域だったことがなんとなく見えてきました。

そしてそれが、多条並列灌漑水路を必要とした理由だったのでしょうか。

 

一本の水色の線から、津軽平野のかんがいの歴史の入り口にたどりつきました。

 

 

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