記録のあれこれ 13 <地図に記録する>

今年に入って体調を崩した母は面会に行くたびにうつらうつら眠っていて、介助で車いすにようやく座れるレベルまで心身の状態が低下していました。


飲み薬の量を調整するために体重を尋ねると「160kgだったかしら・・・」という有様で、いよいよこのまま寝たきりになって会話も成り立たなくなってしまうのだろうかと、子どもの頃から数年ぐらい前まで母に対して苦手だと感じていたことが嘘のように私の気持ちに変化が起き始めていました。


ここ2〜3週間で、母はあの心臓手術のあとの半身麻痺から立ち直った時のように、不死身かと思える回復をし始めました。
歩行器で立ち上がるリハビリをし、車いすを自分で動かそうとしています。
一緒にラウンジに行くと、注文した料理を美味しそうに完食。
心身の回復だけでなく、新たな生活の場で周囲との人間関係を作っています。


「一時期、自分の体重も思い出せずに160kgなんて言うから、もうダメだと思った」と言うと、「あ〜ら、そんなことあったかしら」と笑っていたのは本当に忘れたのか、恥ずかしさを隠すためだったのかわかりませんが。


でも、本当に回復したと思えたのは、母の「記録魔」が戻ったことでした。
今回も、最初はカレンダーに書き込み、そのうちにノートにその日の行動などを書き留めるようになりました。
その、ただただその日にあった事実だけを感情を排して記録していることと、いつまでもうらみつらみから解放されたくない気持ちのバランスはどうやって保っているのか不思議です。


前回の心臓の手術後、リハビリ病院に転院し介護付き老人ホームに移った半年ぐらいの記憶がまだらになっているように、今回も体調を崩したあたりのことはあまり思い出せないそうです。
それで、また記録をつけようと考えたようです。
母にとっては文字を学んだことが本当に役にたっているのでしょう。


さて、元気になってきて母がまたしてみたいことが出てきました。
それは地図を眺めていたいということです。
「ああ、そうだ。私の地図好きは母からもらったものだ」と、畳の上に地図を広げて眺めていた若い頃の母の姿を思い出しました。


先日、母の知らない一面を聞きました。
「どこかに出かけると、行った日を地図に書き込んでいたの」。
なるほど、そんな地図の使い方もあったのかと。




「地図の世界史 大図鑑」の序文に、「地図とはいったい何だろうか」とあり、こんなことが書かれていました。

では、地図とはいったい何だろうか。英語で「地図」(Maps)という言葉が最初に使われたのは、16世紀のことである。以降、300を越える多種多様な「地図」の解釈が考えられてきたものの、現在多くの学者がおおむね賛同している定義は、次のようなものだ。「人間世界における事物、概念、出来事を空間的に理解し、それを図形として表現したもの」。この定義は曖昧に聞こえるかもしれない。しかし。こう定義すれば、単なる科学的な道具という枠組みから地図を解き放つことができるとともに、「地図」という呼称のもとに、驚くほど多様な領域を共存させることができる。たとえば、天体、占星術、地形、神学、宗教、統計、政治、航行、想像、芸術などを対象とした地図が存在するということである。


母の地図には、何を描こうとしていたのでしょうか。




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