盧花恒春園を出たあと、千歳烏山方面を目指して歩きました。
そして、ずいぶん前に自転車でこの辺りを通った時に、不思議な場所があったことを思い出しました。
お手元に地図がある方は、盧花恒春園の前の道を西へとたどってみてください。
「芦花公園南」という信号がある交差点があると思います。
三角形の場所を囲むように3本の道が交差して、一見、五叉路のようになっています。
その小さな三角形の土地はロータリーでもなく、公園でもなく、かすかな記憶では道祖神のような何かがありました。
畑からどんどんとお洒落な宅地になって地価もあがったことでしょうから、きっとあの場所ももうないかもしれないと思って歩いていると、30年ほど前と同じ小さな三角形の土地がありました。
そして記憶以上に立派な祠がありました。
これが粕谷地蔵尊で、こんな説明が書かれていました。
元禄時代、このあたりの難病および飢饉に苦しめられた善男善女の多くの人々が飢えに耐え苦難を乗り越えんとして当地にこの石碑を建て(以下略)
三方を道に囲まれているこの地の脇には、烏山方向より品川方向に流れている品川用水がありここに掛かる橋をツキトヨ橋といいます。
品川用水の名前は「東京地形散歩」の中で目にしたことがありますが、本から得た表層的な知識だったものが、実際に歩いてその場を見たことでここにつながるのかとちょっと鳥肌が立ちました。
拡張工事にあたり水路のために土地を供給することとなる旧仙川用水流域および世田谷領各地に対しては様々な補償がなされた。このような補償の一環として分水口を設け用水の使用権を与えるという約定が締結されたが、(後に続く)
もしかしたら、それまで飢饉や旱魃に苦しめられていたこの地に、品川用水の分水口ができたことで、水不足から解放されることへの大きな希望を持って作られた地蔵尊だったのかもしれません。
ところが、Wikipediaでは以下のように続いています。
これが後に用水量に関わる紛争の原因となる。旱魃が起きると品川領では用水の流量不足が起き、品川領各宿村は上流の分水口を廃止するよう訴えを起こした。
この問題を解決するため1691年(元禄4年)に再び拡張工事が行われる。工事自体は御普請すなわち幕府の費用で行われたが、水路の改修や維持管理、見回りにかかる費用は受益者である流域各村が負担したため、水利権をめぐる紛争は続いた。また盗水や水路破壊事件も度々発生した。
世田谷は豪農の地と勝手にイメージしていたのですが、武蔵野台地で水を得ることがどんなに大変であったか少しずつですが歴史がつながってきました。
この粕谷地蔵尊については検索しても何も出て来ないのですが、おそらく世田谷の郷土資料館などには資料があるのではないかと、あらたな興味ができました。
ちなみに現在の粕谷地蔵尊は地元の方がこの場所を寄付され、守っているようです。
これもまたノブレス・オブリージュのひとつでしょうか。
いつか今度は品川用水を歩いてみたい。
気持ちが乗らずに適当に決めた散歩コースでしたが、思わぬ経験ができました。
「散歩をする」まとめはこちら。