佐波川の堤防のそばの水路は、東西へと3本の水路になっていましたが、一旦、暗渠になり、しばらく上流へと歩くと4本の水路が見えました。川側の1本は他の3本よりも少し高い位置を流れています。
なんとも複雑な分水路です。水路のそばには、古い農家のどっしりとした家が並んでいました。
その向こうに、三角の天神山が見えます。
その麓にある佐波川河川敷公園まで、ここからは堤防の上を歩くことにしました。
土手を上ると、広々とした河川敷です。
堤防の内側には鮮やかな芝桜が植えられていて、堤防の上は遊歩道として整備されていました。
日傘をささなければめまいがしそうなほどの日差しの中、堤防の上を歩いていると、「円筒分水工 600m」と表示板がありました。
地図で気になっていた、河川敷の丸い水色の部分はやはり円筒分水工だったようです。
俄然、元気が出てきました。
遠くに取水堰が見えます。真っ直ぐな堤防の道を、美しい佐波川の流れに元気づけられながら歩きました。
*「防府総合用水の円筒分水工」*
「佐波川周辺総合案内」に、「佐波川自転車道(シバザクラ)」「じゃぶじゃぶ池」「佐波川右岸多目的広場」「上右田児童遊園」「佐波川河川敷緑地」「円筒分水工」「桜本児童遊園」とあり、両岸が公園として整備されているようです。
円筒分水工を上から見ることができる場所に、説明板がありました。
防府総合用水の円筒分水工
防府総合用水の歴史
佐波川は「人が死ななければ梅雨が明けない」と言われるほどの暴れ川で、毎年必ず死者を出していましたが、防府総合用水の整備、上流のダムの建設により、死者を出すことはなくなりました。
防府総合用水は、佐波川に架かる4ヶ所の堰を統合する計画で、昭和26年から昭和33年までの8年間で施工されました。
この円筒分水工は、6本の水路に分水し、複雑な関係を生じていた地域の水問題を抜本的に解消しました。
円筒分水工とは
野菜や米などと作るためには水が必要です。昔から限られた水を求めて争いが絶えませんでした。このため、悩まされてきた水問題を、その源から抜本的に改め、より正確に分配するために考案された施設が「円筒分水工」です。
円筒分水工は、円筒の中心から水を吹き出させ、円筒の周囲に設けた仕切りの間隔(各地域の耕作面積)によって、公平に水を供給する仕組みとなっています。
また、この円筒分水工の直径は、現存する中では『日本一の規模』を誇ります。
名称:防府総合用水
完成年度:昭和33年
形式:逆サイホン(全周越流型)
外円筒:34.0m(日本一の規模)
内円筒:30.0m
受益面積:約1.500ha(当時の面積)
所有者:防府土地改良区
佐波川から取水された水が、「乙井手18%」「青井手37%」「一本樋1%」「仁井令5%」「植松38%」「古祖原1%」の水路へと目の前で分水されています。
私が生まれる少し前に完成したようですが、当時の風景はどんな感じだったのでしょう。
そして佐波川は「人が死ななければ梅雨が明けない」といわれるほどの暴れ川であったとは。
古来より佐波川は何度も洪水を起こしており、重源が木材運搬のために118ヶ所築いたとされる関水(堰)も、殆どが洪水被害により失われている。近代で特に大きな被害を出した洪水としては、国土交通省の佐波川水系河川整備基本方針が、1918年(大正7年)7月の台風により各地で堤防が決壊して3,451戸が浸水した洪水と、1951年(昭和26年)7月に梅雨前線により堤防17ヶ所が決壊して浸水家屋3,397戸に及んだ洪水を挙げている。ただし、1972年(昭和47年)昭和47年7月豪雨以降は、河川氾濫による浸水被害は出ていない。
私が子どもの頃から大きな水害のニュースが少なくなったのは、記憶間違いでもなさそうです。
開作の歴史をたどり用水路と水田を見ることを楽しみにこの地を訪ねてみたのですが、実際に歩いて出会うこうした一枚の説明板に、また知らない世界が広がります。
一本の水路にも、その歴史の重みに打ちひしがれるような感覚に陥るようになりました。
数年前からの散歩も思えば遠くに来たものです。
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