中川と垂直に交わる土手の上に登るとそこにはまっすぐ流れる葛西用水路がありました。
水面は穏やかですが、足がすくみそうな水量が流れていました。柵があるのですが、それがなければ引き込まれるように水の中へと落ちてしまいそうな流れです。
途中に水深標があり、水面まで1.8mほどでしょうか。水路の上端は遊歩道と同じ高さで約2m20~30cmほどのようですから、ほぼ満水のような流れです。
そばにはベンチで水路を眺められるように遊歩道が整備されていて、なんとも心落ち着く場所です。
ただ、大雨の時にはこの水が両側の低い住宅地に越水しないのだろうかと思いながら歩いていると、途中でポンプ場と水門がありました。
対岸に説明板があるようなので迂回してみました。
葛西用水路(東谷分水工)
葛西用水路は、埼玉北・中部から南東部にわたる約8,000haの農地に農業用水を供給する用水路で、その起源は江戸時代にまでさかのぼります。
当時、葛西領(現在の東京都葛飾区付近)の農業用水を補うために、水源を利根川へ求めて水路を北へ掘り進んだことから、葛西用水路と名付けられました。利根川へ掘り進む際には上流の羽生郡(主に現在の羽生市付近)を通過するため、従来より上流の羽生領と下流部の葛西領等との公平な水配分が課題となっていました。
このため、平成4-13年度に行われた利根中央用水事業では、この東谷分水工で水路を二つに分け、向かって左側を分水路(上流部で水を分ける水路)、右側を本線水路(下流部へ確実に水を送る水路)とすることで、上下流に公平に水を配分することが可能となりました。
この分水工の構造的な特徴は、市街地であることから防音構造となっていることや、左側の分水路を昔からの景観に配慮して地下水路(暗渠)としたことです。
(強調は引用者による)
江戸時代からの公平に水を分配するための工夫が、平成に入っても続いていたということですね。
しかも当時は家もないような場所が現在では細い路地を隔てて住宅街になっていますから、時代の変化に合わせての対応も求められますね。
雨風にさらされた説明板の前で圧倒されました。
ハッとしたのが、「水源を求めて水路を北へ掘り進んだ」という箇所でした。
下流から水源へという方向で掘り進むこともあるのですね。これまでさんざん用水路を見てきたのに、川の方から水が流れる方向へ掘り進むものだと思い込んでいました。
そしてあの見沼代用水も関東平野に水が滞ることがない長大な水路を掘るために、55mにつき約9cmの傾斜で掘り進んだという江戸時代の測量技術を思い出しました。
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