ケアとは何か 22 <買物や洗濯・・・日常生活への援助のひとつ>

1980年代初頭に看護職になってから早、もうじき40年になります。私が看護職として働くのはあと数年ぐらいかな、それとも高齢者の定義が変えられて年金受給年齢が上がって、まだ働かなければいけないのかはわからないのですが、「ケア」としてやり残してしまったような忸怩たる想いになるのが、入院中の買物や洗濯といった日常生活への援助に対してです。


いくつか総合病院勤務で働いた最後が2000年代半ばに働いた病院ですが、1990年代後半に建て替えられて真新しい病院になりました。
「病院で食べる食事」の「場所を変えて食事をする」に書いたように、各病棟に広いラウンジができて入院した方々がゆっくり食事をとれるようになりました。


当時はそれだけでも画期的と思ったのですが、2000年代に新築された総合病院にはコンビニやカフェテリアまで併設された施設が出現しました。


思い返すと、1980年代から勤務したいくつかの総合病院はたまたまかもしれませんが売店さえない病院でした。
家族が入院中の身の回りの物を準備し、携帯電話やメールもなかったので、必要な物や欲しい物があっても、次の面会で家族に伝えて買って来てもらうぐらいしか方法がなかったのだろうと思います。
入院というのは外の世界と隔絶されて我慢をしなければいけない環境だったものが、この2000年代に入ったあたりから、入院中でも「買物」という日常生活を継続することが可能になったのかもしれません。


2011年に母が急性期病院に入院した時には、さらに時代が変化していました。
広い売店は当然で、さらに入院中の洗濯の心配もなく、何も持たないで入院できるシステムで、本当に助かりました。


とりあえずは好みとかはさておいて、基本的欲求に対するケアに必要な物品を揃えることについて、患者さんや家族の負担の軽減が配慮され始めたのだと思います。
実際に困ったたくさんの人たちのニーズが、ようやく「私的領域から社会の問題」へと認識されたといえるのかもしれません。


ただおそらくまだ多くの総合病院でも、自分で動けない患者さん、なかなか家族に頼ることのできない患者さんの買物や洗濯への対応については、ケアの視点ではなく個人の問題になったままではないかと想像しています。


まして、小規模の産科診療所では対応が後手後手になっていることでしょう。
産科診療所では、お産や帝王切開だけでなく、切迫早産の入院のように長期に入院する方もいらっしゃるのですが、スタッフの間でも「洗濯や買物は個人の問題」という意識が根強いのではないかと思います。


家族で対応できる場合はそれで良いのですが、今まで何度か遭遇してきた「家族に頼れない」「家族に頼りたくない」「家族もしたくない」などいろいろな場面を観てきたのに、それを社会の問題、看護の問題とするには私は無力だと目をつぶって来たのではないか、と。



もし私が入院したら、あるいは介護施設でお世話になったら、洗濯や買物を家族に頼らないでできるシステムが欲しいと、あれこれ考えています。
まだ妄想の世界に留まっているのですが。



AERAdotの「スーパーの自動支払機はお年寄りに残酷すぎる」という記事が心にひっかかったのは、買物について「ケアとは何か」という視点で考えてみたかったからだと明確になってきました。
ということで、その記事から考えたものはこちらにまとめてみようと思います。

イメージのあれこれ 16 <高齢者とは>
存在する 14 <自分の存在を認めてもらいたい>
イメージのあれこれ 17 <「人を幸せにする」ための商売>
正しさより正確性を 9 <買物とは何か>
ケアとは何か 23 <ケアへの要求が高まれば、ケアの質も高くなる>
ケアとは何か 24 <買物ひとつとっても個別性がある>

「ケアとは何か」まとめはこちら