散歩をする 66 <駒沢給水塔>

港区の谷町ジャンクションから始まり、渋谷から用賀料金所あたりまで国道246号線の上を走っているのが首都高3号線ですが、大げさではなく数百回ぐらいはその上を通っているのではないかと思います。


遠くに10階以上のビルが1列に並んでいる場所が見えるのですが、「あれが甲州街道」とかだいたい通過している場所の風景を覚えているほどです。


それだけ見慣れているはずの風景なのですが、今年になって初めて気づいた建物がありました。
茶色いレンガ造の塔が2つ見えるのです。
「水道」に関心を持っていたので給水塔だろうということは見当がつきましたが、それが駒沢給水所でした。


いつもなら、また新たに水道についての知識が広がったうれしさがあるのですが、今回は、今までその風景を見ていたはずなのになぜ見えていなかったのかというショックが大きすぎました
大正12年(1923年)からそこに存在していたわけですし、何百回とそのそばを通っていたのですから。


気を取り直して、是非是非この目で見たいを思い出かけました。


<高台にある給水所>


以前、世田谷に住んでいて、環八沿いのアップダウンの激しさなどを実感していたはずなのに、なぜか「平坦な世田谷」というイメージが強かったのは、もしかするとこの首都高からの風景に理由があるかもしれません。


高いところから見ると、ぎっしりとさまざまな高さの建物があの一帯の地形を覆い隠しているようかのように見えます。
また、「豪農の世田谷」「農地は平坦な場所に作られたはず」というイメージと思い込みも強かったのかもしれません。


散歩をしていくうちに、昔、川が合った場所が現在どのように地図で描かれているか、その蛇行の具合から周辺の高低差まで、少し予測できるようになってきました。


ただ、今回は地図でその駒沢給水所あたりを眺めても、地形のヒントになるようなものが見えてきませんでした。
しいていえば、以前からずっと気になっていた田園都市線が用賀から桜新町、そして駒沢大学駅まで北側に弧を描くようになっていて、首都高や国道246号と離れていることです。


何百回と通過したことがあるのに降りたことがなかった桜新町駅が、今回の散歩のスタートです。
首都高から見ていた風景と、実際に歩いてみるのではどんな違いがあるのか楽しみでした。


その弧を描いている田園都市線の上を通っているのが東京都道427号線瀬田貫井線だそうで、なんとあの街路樹がすてきな中杉通りもその一部だそうです。


そして、「現在の用賀駅前交差点から桜新町までの区間は、かつては玉電の専用軌道であった」とあります。
桜新町駅を降りて、すぐにその意味がわかったような気がしました。
都道427号線より南側は、下り坂になっていました。やや高いこの場所が線路として選ばれたのかもしれません。


桜新町駅から歩いて数分もしないうちに、「ここは水道用地です」という表示があり、駒沢給水所へ向かうまっすぐな道がありました。


 明治末期から大正初期にかけてこの東京市(当時)周辺は、人口の増加につれて安全な飲料水の確保が必要となり、上水道布設事業が相次いだ。特に人口増加の著しい豊多摩郡渋谷町(現渋谷区)では早くから具体化が進み、東京市の水道事業推進の重鎮であった中島鋭治博士に依頼して町営水道布設の計画に着手、大正六年には実地調査を基に、取水地に多摩川河畔の砧村(現鎌田)を、中継の給水場に駒沢を選び、計画を取りまとめて認可を申請、大正九年に内務大臣、翌十年には大蔵大臣の認可を得、ここに世田谷を横断する大規模な水道工事が、国家事業並みの扱いで大正十年五月に着工となった。
 中島博士の計画は、砧村に浄水場を設けて清潔な水を作り、ポンプの力で駒沢給水場に設置した給水塔に押し上げた後、自然重力で渋谷町へ送水するという斬新な仕組みであった。
関東大震災を挟んで大正十三年三月に全工事が完了した。

 ここ給水場には、西欧の中世風の趣きを持ち、独特な意匠を施した二基の巨大塔が姿を現した。塔屋には王冠を連想させる装飾電球が付けられ、軽やかな特徴のあるトラス橋で両塔が結ばれている。この独特な設計は二度のヨーロッパ出張で得た中島博士の卓越した土木建築デザイン感覚によるものである。同時期砧浄水場(現鎌田)には、緩速ろ過池の横、青い西洋瓦葺き屋根の上に、愛らしい四角錘の小塔を載せたユニークな送水ポンプ室が竣工している。なお昭和二年、ここ給水場には渋谷町上水道布設記念碑も造られた。
 その後、関東大震災後の渋谷町の人口急増により、昭和六〜七年にかけて取水場所の作り変えや、ろ過池の増設など大規模な拡張工事が行われた。その際砧の浄水場には取水ポンプ室、駒沢の給水場には送水ポンプ室が新たに建造されたが、いづれも優れたデザイン性に富み、昭和の名建造物といわれている。昭和七年十月、周辺郡部が東京市に併合されるのに伴い、渋谷町水道も東京市水道局に移管されて、その名は消えた。

 戦後、東京都の水道局となってから、水道技術革新により浄水場は高度浄水施設への転換と給水場の地下埋設大型化が進み、大正・昭和初期の水道の姿を留めるものが極めて少なくなりつつある現在、数少ない例外とも言えるのが、駒沢給水塔を頂点とした多摩川河畔と駒沢の渋谷町水道遺産の数々ではなかろうか。豊かな緑の樹林の中に聳え立つ双塔の偉容は、人々に近代水道文明の歴史を語りかけているように思えてならない。
 平成十四年、都水道局は老朽化の激しい布設記念碑の大掛かりな改修作業と併せ、塔屋の装飾球の復元やトラス橋の全面塗装替えでイメージを一新した。殊に塔屋の夜間点灯は、復元後今日まで世田谷区民に貴重な近代化遺産をアピールする格好の風物詩となっっている。
 中島博士生誕百五十年にあたる今年、駒沢給水塔風景資産保存会と世田谷区は相携え、この地に残る世界的に貴重な近代化遺産を長く後世に残せるよう、都水道局の理解強力のもとに、思いをこめてこの銘板を作成した。


 平成二十年十二月 駒沢給水塔風景資産保存会・世田谷区

残念なことに、給水所の周辺は人家や高い塀で覆われ、さらに成長した樹木が茂っているため、近くからはむしろその全貌を見ることができませんでした。



給水塔から北へ向かって歩き始めると急な下り坂があり、桜新町駅を降りてすぐに見えた南側への下り坂とともに、このあたりがけっこうな高台であることを実感しました。
「ポンプの力で駒沢給水場に設置した給水塔に押し上げた後、自然重力で渋谷町へ送水するという斬新な仕組み」の意味が理解できたような気がしました。





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