福山駅から岡山駅までは、まだ乗ったことのない九州新幹線の車体の便に乗れるように計画していましたが、雨で予定よりだいぶ早く福山駅に到着してしまいました。1本早い便に乗ろうと時刻表を見たら、なんと30分に1本でした。
ちょっと寒かったのですがホームで通過するのぞみを眺め、さくらだったかみずほだったか記憶が曖昧ですが、結局、予定通り九州新幹線に乗ったのでした。
福山駅を出るとしばらく平地の市街地が続き、福山上水の水路が山側から海へとまっすぐに通っている場所もあっという間に過ぎました。もう一本の水路を越える時に「水泳病院」と看板が見えたような気がしたのですが、後で確認したら「水永」でした。そうですよね。
この辺りから山側の住宅地は結構な起伏があります。
地図を見ても、昔は海岸線に近い場所だったのだろうと思えます。
おそらく福山城の少し南側はかつては海で、現在の芦田川の河口付近までの数kmは干拓地で、笠岡干拓地は島と島の間を干拓したのに対して、遠浅の海だったのでしょうか。
こんなに海に近いところに城を築くと、赤穂城のように真水を得るのが難しいことでしょう。
すごい発想ですね。
*「福山の水道のあゆみ」より*
今回は残念ながら郷土資料館などに立ち寄れなかったのですが、Wikipediaの福山旧水道に福山上水の歴史がまとめられています。
その中の「1945年戦災概況図福山」を見ると、芦田川河口までの干拓地は戦前にすでにあったようです。
Wikipediaのリンクに福山市上下水道局の「福山の水道のあゆみ」があり、明治以降の上水道建設の歴史が書かれています。
江戸初期に造られた福山上水も、福山の都市化に伴ってコレラなど衛生的な問題や老朽化で明治末期には上水道建設が必要になりますが、困難が山積みだったようです。
関係者の努力の結果、大正5年(1916年)7月1日、広島県4番目の市として福山市が誕生し、いよいよ近代都市としての基礎を整えることとなりました。
そして、市を上げての一大事業として上水道の建設が始まりました。途中、水源を地下水と表流水のどちらかに求めるかの論争、用地買収、芦田川の大水害などもあり、完成までいくつもの困難がありましたが、大正14年(1925年)11月、ついに上水道は完成しました。
熊野町渓谷に設けた貯水池を水源として、自然流下で佐波町の浄水場から市内に給水が開始され、20数年一貫して上水道建設に欠けた人々の熱い思いとともに、歴史の1ページを開きました。
その佐波浄水場に掲げられているのが、今日のタイトルの言葉でした。
「不舎晝夜」(ふしゃちゅうや)
断水のないことを意味するとともに、この言葉には上水道建設の苦労、福山永遠の発展、市民の幸福の思いが込められています。
本当に、「給水の清浄、豊富、低廉を確保する」という数世紀の歴史によって、当たり前のように昼も夜も水道の水を使えるという夢のような時代ですね。
今回歩いたのは「本庄二股」から蓮池までの開渠部分でしたが、市内にはまだ遺構があちこちにあるようです。
そして十七世紀にはすでに「主要幹線は、道の中央に配置され両岸を石垣で固めその上に石畳で覆いを被せた暗渠としていた」「幹線の要所は「貫洞」と呼ばれた井戸状の中継点が置かれた」(Wikipediaより)とのこと、いつかそのあたりをまた歩いてみたいものです。
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