行間を読む 119 軍港水道から市民水道へ

山の田浄水場について検索すると、「土木学会 選奨土木遺産」に「山の田浄水場軍の解説シート」がありました。

 

明治時代に海軍が造った古い水道施設ぐらいの内容かと思って読み始めたところ、「水道」にもこういう捉え方があるのかとまた知らない世界が広がりました。

それが、「軍港水道」「市民水道」という言葉でした。

 

沿革や諸元・形式 

 

1889(明治22)年、自然景勝地としても広く知られる佐世保に、第三海軍区鎮守府が置かれた。それ以来、佐世保は西海鎮守の軍港都市として目覚ましい発展を遂げた。佐世保市内や周辺地域には旧海軍関連の施設がいまなお点在し、旧佐世保海軍工廠船梁、旧海軍凱旋記念館、旧針尾電線電信塔など、当時の土木建築と軍事の関係を理解する上でも有効な近代化遺産となっている。

 

横須賀、舞鶴、呉と同様、佐世保においても鎮守府設置の決定によって軍港水道がいち早く創設された。1889(明治22)年に竣功した佐世保初の近代水道は軍港ない山腹の炭鉱廃坑湧水を水源とした簡易なものであったが、その後の鎮守府拡張に伴い、1900(明治33)・1901(明治34)年には岡本貯水池と矢岳浄水場(戦後廃止)がそれぞれ新設された。さらに日露戦争後の軍港拡張による使用水量増大を背景として、精選された良質の自然土によって構築された土壌堤・山の田ダム、当時最新鋭の濾過用砂洗機を持つ濾砂格納庫とともに、「山の田第一浄水場」が1908(明治41)年に竣功する。

 

岡本貯水池は在来の灌漑用地下水を利用するものであり、近代水道貯水池としては珍しい真円形の平面を持っている。これと山の田貯水池を比較するだけでも、利用水源の違いによる貯水池形態の総意、あるいはわずか7年あまりの間に達成された当時の技術的進歩を直接見ることができ、大変興味深いが、山の田浄水場敷地内にはさらに明快な時代の積層が読み取れる。1926(大正15)年に佐世保市によって新たに完成した「山の田第二浄水場」は、山の田貯水池の軍事余水を分水するため、第一浄水場に隣接して設置されているのである。敷地内にある「麗泉」の文字の刻まれた配水池および濾過井上屋もこのとき整備されたものであり、大正建築さながらの古典主義の意匠が施されている。一方、この新しい市民水道の設計平面図では、隣接する軍港水道の第一浄水場が完全に消去されている。

 

このほか山の田浄水場内には、木造下見板の水質管理係事務所棟、1940(昭和15)年の拡張事業時に整備されたと思われる煉瓦造の濾過井上屋、また浄水場周辺地域では浄水場から200mほど西の導水線上にある煉瓦造の量水井屋、1901(明治34)年に市内堺木・野中の2か所に設けられた減圧井(いずれも現在は使用されていない)、1940(昭和15)年の水道拡張事業に合わせて竣功した山の田浄水場にも一部送水している菰田貯水池、さらには海軍の錨マークが施された排気弁蓋など、ユニークな施設軍がそれぞれの関係を保持しながら今なお存在し続けている。

これらには個々の機能的・意匠的な価値のみならず、佐世保市ひいては日本の近代浄水システムの発展しが階層的に反映された近代システム遺産群としての価値も十分見出されよう。将来の保存活用においても、このように施設の複合体として近代化遺産を捉える方法が検討されても良い。近代上水道システムにおいてはこの視座が特に有効となろう。

 

山の田貯水場は、近代水道が驚異的に変化する時代の記録でもあるようです。

 

 

そして水道の歴史には、軍港水道から市民水道へという水の分け方もあることを初めて知りました。

佐世保で初めて水道の蛇口から水が出た頃は、どんな雰囲気だったのでしょうか。

 

 

 

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