散歩をする 71 <大場川から三郷放水路へ>

関東平野の地図を見ていると、東西にまっすぐに流れる「川」があります。
ここ1〜2年であちこちと川沿いを歩くようになって、新左近川のようにかつて物流の大事な運河であったこととつながりました。
江戸へ物を運ぶための舟運が発達していたことは知識としてはなんとなくあっても、実際にどの辺りなのかは漠然としたままでした。


時間があるとMacやiPhoneの地図を指でびよ〜んと拡大して眺めているうちに、大きな河川と河川をまっすぐに横切る「川」がけっこうあることに気づきました。
先日訪ねた首都圏外郭放水路が流れ込む江戸川下流にあるのが三郷放水路で、江戸川と中川をつないでいます。
その三郷放水路と垂直に交差して南へと伸び、途中でほぼ直角に西へと曲がりあの水元公園の横を通って中川へと流れる川があります。
それが大場川です。

昨年、蓮を見にもう一度水元公園へ行った時に、その大場川沿いに歩いて、中川に合流する大場川水門を見てから帰路につきました。


あの大場川の上流に大きな放水路があることに、ぜひ、この目で見たいと思いつきました。


干拓地の浸水対策に300年を費やした>


Wikipedia大場川の説明には「埼玉県吉川市市川野付近の干拓地に端を発する」とあり、「歴史」にも「1676年(延宝4年)に二郷半沼を干拓した際、排水のために開削された」と書かれています。
それが、大場川がまっすぐな理由のようです。


久しぶりの水元公園で蓮の花を楽しみにして行きましたが、少し時期が早かったようで、蕾がいくつかあるだけでした。
それでも広々とした小合溜のそばで、ぼっとしているだけでも幸せな気分です。


でも先を急がなければと公園横からバスに乗り、大場川が直角に曲がっている八木郷橋で降りてそこから大場川沿いを歩きました。
本当にほぼまっすぐで、しかも勾配があまりないためか水が流れているのかわからないような水面です。
付近の土地も全くといってよいほど高低差がなく、ところどころ大場川からの用水路が暗渠や開渠で残り、少し前までは田畑が広がっていたであろう場所に住宅が立ち並んでいます。


そばを流れる江戸川が大きく蛇行しながら、大場川に近づいている箇所には大場川下流排水機場がありました。


さらにまっすぐ大場川沿いに歩いていると、ようやく高低差のある場所が見えてきました。
それが三郷放水路を渡る橋です。
放水路をまたいで掛けるために、大きな弧を描いている橋は、全く向こう側が見えないほどです。
放水路に沿って遊歩道が整備されているのですが、歩いてそこに行くにはどうしたらよいかわからないほど、橋に沿った部分には歩道もないし、橋の手前にも横断歩道もありません。
もしかすると歩道を整備して歩行者が増えると、あの急な勾配の橋を車が通行する妨げになってもっと危ないのかもしれません。
対岸側からスピードをつけて橋を渡ってくる車も見えないので、一瞬の隙をついて道路を渡るしかありませんでした。


江戸川との境に大きな排水機場がありました。
反対側の中川との境も見てみたいと、遊歩道沿いに放水路を歩いてみました。
付近よりも2〜3m高い堤防を歩いていると、周辺の街が一望できるくらいの平地です。
ところどころ、水田が残っていました。
中川との境には水門があり、これが「中川からの逆流を防止する逆止水門」のようです。


江戸川と中川を結ぶ三郷放水路は全長1.5kmとあるように、歩いても20数分で横断できる場所でした。
大場川の歴史に数行でまとめられていることの意味が、この大きな河川に挟まれて広がってきた土地を実際に歩いてみて、少し理解できたような気がしました。

1676年(延宝4年)に二郷半沼を干拓した際、排水のために開削された。1918年(大正7年)から1933(昭和8年)にかけて総事業費525万円を投じて県による河川改修事業が実施され、排水機能の改善が図られた。1947年(昭和22年)9月3日には、カスリーン台風による氾濫水が、「櫻堤」と呼ばれる大場川と小合溜の堤防(現在の水元公園)に到達した。そのまま水が溜まり続けて「櫻堤」が崩壊した場合、東京の下町方面に氾濫する恐れがあったため、隣接する江戸川の堤防を爆破し、江戸川へ水を排水しようとするなどの対策がとられたものの失敗。19日未明に「櫻堤」は崩壊し、金町、柴又、小岩付近は浸水した。
1958年の狩野川台風の際にも、大場川周辺の広い地域に浸水被害が発生している。


水害が激減した時代の後に生まれた私でも、まだまだ浸水被害は身近な災害でした。
それでも、カスリーン台風伊勢湾台風狩野川台風などの被害は、桁違いのものだったらしいというイメージがあります。
当時、このあたりはどんな様子だったのでしょうか。


中川・綾瀬川流域は特に低層のため、水はけが悪く、水が溜まりやすい地形である上、都市化の進展により大雨が降ると度々洪水になり、流域住民を悩ませていた。また、中川下流部は工場・生活排水などにより水質汚濁が深刻化していた。そのため、こうした状況を改善すべく本放水路が1973年(昭和48年)に建設された。


江戸時代からの干拓事業での浸水対策に300年かかった、と言えるかもしれませんね。
三郷放水路ができた半世紀ほど前(私が中学生になった頃)でさえも、この放水路は水害を食い止めるための施設であり、「遊歩道をのんびり歩く」ことは想定外だったことでしょう。




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