行間を読む 161 江戸時代からの阿賀野川の河道の変遷

信濃川の流れはだいたい頭に描けるようになったのですが、阿賀野川については「新潟県のだいたい真ん中あたりを流れている」くらいしか思いうかばないまま、今回の散歩に出かけました。

 

地図では福島潟も阿賀野川本流から少し離れた場所のように見えますから、なぜ新潟水俣病の資料館が福島潟のそばにあるのだろう、あの神通川のそばにある富山県立イタイイタイ病資料館のように阿賀野川のそばにつくられなかったのはなぜだろうと素朴な疑問がありました。

 

建物の前の石碑を読み中に入ると、エントランスホールに、阿賀野川についての展示がありました。

 

阿賀野川の河道の移りかわり

 

江戸時代の中ごろ、阿賀野川は現代の河口の手前で西に曲がり、信濃川に合流していました。

 その頃、8代将軍徳川吉宗の新田開発政策で進められていた、阿賀野川北東の塩津潟(紫雲寺潟)干拓に関連して、松ヶ崎(現在の新潟市松浜)に放水路を切り開き、阿賀野川を直接日本海へ流そうとする計画が持ち上がりました。

しかし、信濃川河口にあった新潟湊(みなと)の関係者は、信濃川への流量が減少し、湊が水深不足になることを心配して、計画に強く反対しました。そこで、幕府監督の下、工事に当たった新発田藩は、放水路の最上流に木や石で堰を設け、洪水の時だけ放水する「悪水抜き」とすることで、新潟湊の同意を得て、1730年(享保15)年に開削工事を行いました。しかし、翌年の雪代(ゆきしろ)洪水(雪解け水が引き起こす洪水)によって堰が流されて、放水路は本流になってしまいました。これ以降、新潟湊は水深不足に悩まされますが、阿賀野川の水はけは飛躍的に改善し、下流部一帯の水田開発が進みました。

 

現代の地図で阿賀野川の河口付近がまっすぐなのは放水路だろうと見当はつくのですが、てっきり明治時代以降だと思っていました。

 

江戸時代の中ごろまでは阿賀野川は河口の手前で西に曲がって信濃川と合流していたが、「阿賀野川を直接日本海へ流そう」と現在の流れになったのですね。

あの利根川東遷事業と同じような川を付け替えるという壮大な歴史がこの越後平野にあったことを初めて知りました。

 

新潟市内の地図を見ると信濃川河口付近に東から西へ通船川があります。「材木町」「新川町」といった地名に、その名の通り運河として新しく開削されたものと思っていましたが、この川が江戸時代の阿賀野川だったようです。

 

エントランスに展示されていた「1647(正保4年)」の越後平野の川の絵と同じものを、新潟県のホームページの「『新発田地域における新田開発のあゆみ(排水編)』を紹介します」で見ることができますが、川や潟が無秩序にひしめいている状況です。

新潟水俣病の展示を見る前に、しばらくこの図の前で立ちすくんでしまいました。

 

それにしても「洪水の時だけ放水する『悪水抜き』」とは、現代でいえばダムの緊急放流でしょうか。

てっきり近代的な土木技術の発想だと思っていましたが、もっと長い歴史があるようですね。

 

 

 

*おまけ*

 

Wikipedia阿賀野川水系を読んでいたら、安積疏水(あさかそすい)の説明も書かれていました。

阿武隈川が近くにありながら水を得られなかった福島県の安積原野へ、阿賀野水系である猪苗代湖から安積疏水を引いたのでした。

そうだった、猪苗代湖阿賀野水系だったと思い出しました。

 

阿賀川から阿賀野川へ信濃川だけでなく阿賀野川ももっと歩いてみたいと次々と関心が増える新潟県です。

 

 

「行間を読む」まとめはこちら