水のあれこれ 80 <50年に一度の災害>

4月中旬に小さな青い実ができ始めることを今年になって初めて知った無花果ですが、その後は急に大きくなるわけではないようです。
いつも通る道にある無花果も、ようやく店頭で見るサイズになってきたこの頃ですが、まだ青いままです。
この数日、そばを通るだけであの懐かしい無花果の香りが急に感じられるようになってきました。


その無花果の香りで関西の祖父のことを思い出していたところ、倉敷の街が大変なことになってしまいました。
祖父の暮らしていた地域とは離れているようですが、まるでおじいちゃんの大事な田んぼや家が水に浸かってしまったように心が潰れそうな思いでニュースを追っています。


私が幼少の頃から今に至るまで半世紀以上、倉敷で甚大な水害が起きた記憶がありませんでした。
いつ訪ねても雨の記憶がないほどで、むしろ水不足の方が心配されていた印象だけが残っています。
その倉敷の街があんなに広域に水没してしまうなんて、今も信じられません。
ただ、最後に倉敷を訪ねたのは30年ほど前ですから、私の記憶もイメージも曖昧なものです。


今回の水害の映像を見て、私のイメージにある倉敷と少し違う何かを感じました。
祖父の家の周囲は見渡す限り関東平野のように高低差がない地域でした。遠くに、少し小高い場所がポツンポツンとあるだけです。
今回、大変な水害に見舞われた地域には背後に山があるように見えました。
パソコンの航空写真で確認して見ると、小田川周辺は両側を山に挟まれている地域でした。
「倉敷」といっても、これだけ地形が異なる地域があることを今回、初めて知りました。


倉敷市の水害の歴史>


Wikipedia倉敷市の「気候・環境」には以下のように書かれています。

温暖で晴れの日が多く雨が少ない瀬戸内海式気候に属する反面、高梁川による豊富な水資源の恩恵で水不足になることは稀である。冬から春にかけては、中国大陸から流入する黄砂に見舞われることもある。また冬には積雪の観測される日も年に1〜2回程度はあるが、大雪は極めて少ない。
太平洋高気圧に覆われる夏季には瀬戸内海沿岸特有の「凪」が発生し、36度を超える猛暑・酷暑となる日々や、熱帯夜になる日もある。また、瀬戸内海を隔てて南方に位置する千数百メートル級の急峻な山々が連なる四国山地により台風が直撃することが滅多に無く、直上を通過しても四国山地で勢力が弱められて甚大な被害とはならない場合が多いのも特徴。


これが、私の倉敷のイメージそのものでした。四国や近畿、あるいは広島で大雨のニュースがあっても、倉敷の水害はまず聞いたことがなくて、いつも晴れているイメージでした。
それでも干拓地から豊かにお米が実る水田に変えるほどの水を、あの高梁川から得ていたのですね。


大部分が沖積平野干拓地である平野部は河川や海の水面との差があまりない低地が多く、明治時代まで東西に分かれていた高梁川が度々氾濫を起こす水害の多い地域であった。しかし、大正時代に用水路の整備とともに改修工事が行われ現在の形に一本化された後は水害が少なくなった


「地理・地勢」に、「市内には児島、亀島山、玉島、連島など『島』のつく地名が多く、それらの地域が地続きになって今の市域が形成されている(『島』の付く地名は、かつて付近一帯が干拓される以前には島だった名残である)」と書かれています。
祖父の家の周辺も、「島」が付く地域でした。


同じ倉敷市でも、祖父の暮らしていた干拓部と、高梁川上流や支流の地域では地形が異なるのですね。
さらにWikipediaの「市域の変遷」を読んでちょっと驚きました。
私が生まれた1960年代初頭はまだ、「倉敷市」の範囲も今とは違っていたようです。


今回、数十年に一度の降雨量に対する大雨特別警報が出されたのですが、倉敷市の水害の歴史をたどると100年に一度と言える事態だったのかもしれません。



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