玉島の干拓地を見て倉敷に戻るのが正午ごろですから、岡山から広島の散歩の最終日はまだまだ時間があります。
計画の段階でどこへ行こうか何度も地図をみました。
新幹線で岡山県に入るとまず一本めの大きな川を渡るのですが、それが吉井川です。
この川を見ると、「ああ!岡山県だ!」とまるで自分の故郷に戻ってきたような気持ちになります。今回は断念した津山は上流にあり、いつかこの川の流域も訪ねてみたいものです。
新幹線の車窓からは山の合間から美しい川が見えるのですが、幾度となく大水害に見舞われてきたというWikipediaの説明が信じられない穏やかな川に見えます。
この吉井川、そして岡山市内を流れる旭川の下流を見ると、そこも干拓地が広がっています。航空写真で見てもまだまだ水田地帯が残っているようです。
吉井川の左岸の河口付近に「水門町」「水門湾」と見つけ、この辺りを見てみたいと思いました。
ただ、交通手段がないので、残念ながら干拓地の北側を走るバスで遠目にみるしかなさそうです。
そのバス路線をたどっていくと、牛窓に行くようです。
子どもの頃から耳にしていた地名です。ただ、療養所のある地域はもっと遠く、別のバス路線でした。
散歩の最後はこの牛窓で瀬戸内海をぼっと眺めよう、と決まりました。
*干拓地を抜けて牛窓へ*
午前中は少し歩くと汗ばむような暖かさでしたが、午後になると晴れているのに、冷たい風に変わりました。
岡山駅で赤穂線を待つ間も、ちょっと凍えそうです。海沿いはもっと寒そうなので気持ちが揺らぎましたが、引き返すのはもったいないと決行です。
西大寺駅に降りて牛窓行きのバスに乗りました。吉井川を渡ると水田地帯が広がります。バスの左手は山肌に沿って集落があり、右手は広大な干拓地です。
しばらくすると上り坂になり、ため池や大きなお寺そして竹やぶと山あいの村の風景に変わりました。わずかな水田も見えました。どこから水を引いてくるのでしょうか。
しばらくすると下り坂になり、また海が見えはじめました。
小さな湾に沿って牛窓の街がありました。
行き当りばったりで歩いてみると、江戸時代からの街並みが残っている路地がありました。
牛窓港のあたりで、島が浮かぶ瀬戸内海を眺めているうちに、晴れていたと思ったら冷たい小雨も降り出して寒さも限界です。
予定より1本早いバスに乗って戻ることにしました。
「コトバンク」の牛窓の解説を読むと、古くから港町として栄えていたのですね。
中心集落の牛窓は神功皇后の征韓にちなむ伝説をもち、『万葉集』などにもみられる古い港町。西国航路の潮待ち港、風待ち港として発展。近世には岡山藩の重要港となり、一文字の波止がつくられた。寛永13(1636)年以来、朝鮮からの使節の停泊港。丘陵上の畑地では備前かぼちゃなどの野菜を産し、広大なオリーブ園もある。漁業も盛んで、近世は岡山藩の水主浦(かこうら)であった。
(ブリタニカ国際大百科事典)
東北側の錦海湾(きんかいわん)は1956年に約340ヘクタールの日本最大の塩田となったが1971年に廃された。(日本大百科全書(ニッポニカ))
そういえば、瀬戸内海の大きな塩田は教科書でも習った記憶がありますし、1960年代、子どものころに、親戚からも聞いたことがありました。
江戸時代からの新田開発や歴史が、少しずつ私の中で年表になってきました。
帰りのバスの車窓から、午前中に見た記憶のある水島工業地帯のような場所が遠くに見えました。
直線距離にして20数キロメートルですが、遮るものもなく見えたのでした。
そこで、方向感覚がおかしくなった理由がわかりました。
児島の親戚の家から水島工業地帯が左手に見えたのは、島と島の間で遮るものがなかったからだったのだと。
岡山はやはり島をつないだ干拓地によってできた土地なのだと、改めて感じた散歩でした。
今回の岡山から広島をまわった記録はここまでですが、思い返しているうちにまたまた行きたい場所が増えてしまいました。
困ったものです。
「散歩をする」まとめはこちら。